沿ドニエストル、ボスニア、チェチェンへの関与
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 05:33 UTC 版)
「イゴール・ガーキン」の記事における「沿ドニエストル、ボスニア、チェチェンへの関与」の解説
ロシアのメディアは、ガーキンについて、ロシア軍予備役将校、ロシアが認定した敵を排除することに関して強硬路線を敷く人物、チェチェン紛争においてロシア連邦側で戦う人物、トランスニストリア戦争で親モスクワ分離主義者側で戦う人物であると報道している。ガーキンはボスニア・ヘルツェゴビナ紛争にセルビア側の義勇兵として参加した。またチェチェンにも参加している. 1999年、ガーキンはボスニア・ヘルツェゴヴィナにおける戦闘の回想録を出版した. 2014年、ガーキンは、1992年に数千人の民間人が殺されたヴィシェグラード の虐殺に関与しているとして、ボスニアのメディア(Klix.ba)に告発され、ボスニア・ヘルツェゴビナ軍を退役した。 BBCは、ロシアの軍事専門家から引用して、ガーキンは対テロ部隊としてロシア連邦保安庁(FSB)のために働いていた可能性があると報告している. ロシアのメディアによれば、ガーキンの退官前の最後のはFSBの指導者と共にFSBの将校として国際テロとの戦いに従事することであったと伝えられている。 2014年、アノニマス・インターナショナルはガーキンの個人メールを暴露し、 、ガーキンが1996年から2013年3月までの18年間をロシア連邦保安庁に所属していたことを明らかにした。。またモスクワ・タイムズはガーキンが1996年から2005年までチェチェンにいたと報道した。同紙は電子メールと電話でガーキンと連絡をとり、ガーキンはモスクワ生まれであると報告したが、ガーキンはそれを否定しているようだ。ウクライナの地方の親ロシア派民兵の指揮官である、ヴャチェスラフ・ポノマレフは、ガーキンを古い友人であると述べ、上記の情報は正しいと話した。 「ストレルコフ(ストレロック) は概ね「小銃手」 又は「射手」と訳することができる。 彼はイゴール・グロズヌイ(「イゴール・ザ・テリブル」)とも呼ばれている。 ロシア有数の人権グループ記念館長のアレクサンダー・チェルカソフは、ウクライナに現れた「イゴール・ストレルコフ」はロシア軍将校の「ストレルコフ」と同一人物であると確信している。チェルカソフは、「ストレルコフ」が2001年から2002年にかけて、チェチェンのヴェデンスキー地区の山岳地帯のハタウニ村と近隣のマフケティとテブゼニ入植地の住民の強制失踪事件と推定殺人事件の4つの別個の事件の少なくとも6つの強制失踪事件と殺人事件に直接責任があると特定した。このとき、「ストレルコフ」はハタウニ村近くに基地を構えていたロシア空挺軍の第45分遣偵察連隊の特殊部隊に所属していた。 これらの犯罪はいずれも公式調査によって解決されなかった。 チェチェンの人権オンブズマンのウェブサイトは2001年に失踪したハタウニ村の住民を記載している。ウェブサイトによれば、失踪した住民は、「Proskuryn大佐及びストレルコフ・イゴール」として知られる将校によって自宅から誘拐され、第45分遣偵察連隊の基地に連れていかれたという。; 別の一覧表には「イゴール・ストレルコフ(通称Strikal)」に率いられた第45分遣偵察連隊の兵士によってエリスタンジ村から誘拐されたベスラーン・ タラモフという人物が記載されている。 また、チェルカソフはストレルコフの犠牲者としてドゥルタイエフ及びタシャエフ (タラモフではない)を挙げている。 チェルカソフと他の観察者は、それは実際には2014年5月まで同じ「ストレルコフ」であったということを疑っており、 ストレルコフ自身は2001年、ハウタニに滞在し、そこで地元勢力と戦っていた。 ユーベイ・ナガエフは、テブザニの住民であり、2001年4月27日に第45分遣偵察連隊よって最初に拘留された人物である。ゾー・ダガエという人物が即決処刑される際に、ナガエフは負傷したが、死んだふりをして生き延びた。 しかしその後、ナガエフは再びストレルコフの部隊に拘束され、ハンカラ基地に移送され跡形もなく消えてしまった。 ロシア連邦保安庁の関係者によれば、ナガエフは、詳細不明の罪を自白させるために拷問された後、爆薬で処刑された。 チェルカソフによれば、チェチェンでのストレルコフの活動により、二人の姉妹がテロリズムに転向し、3年後に死亡した。姉妹の一人アミナト・ナガエワは、2004年、Tu-134「ヴォルガ-アエロエクスプレス」旅客機に乗ってトゥーラ州上空で自爆し、43名が死亡した。もう一人の姉妹、ローザ・ナガエワは、同じ年にベスラン学校占拠事件に参加した。 2014年5月に漏洩し、ストレルコフによって作成されたというEメールには、レビューのために友人に送ったボスニアとチェチェンからの彼の日記が含まれていた。そこには、メスケル=ユルト村からチェチェンの活動家達の捕獲作戦について記されていた。ストレルコフは友人の一人に「私達が捕らえ尋問した人々は裁判もなく跡形もなく消えてしまった。それを公表することはできない。」と応えた。
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