沾洲派との対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 07:05 UTC 版)
享保18年(1733年)露沾の没後、後継者貴志沾洲が譬喩俳諧を行ったため、枯淡を基調とする俳風から対立し、江戸座の中で孤立していった。享保17年(1732年)5月、地誌『江戸砂子』を刊行すると、これが評判を呼んだ。享保17年(1732年)6月、『綾錦』において誹諧の系譜を論じたが、沾洲派の存在を軽視するもので、波紋を呼んだ。 享保18年(1733年)3月、養父行尚の追善のため伊賀上野に帰省し、京都の林家で所用を済ませ、江戸に戻った。5月この旅を元に『故郷の水』を著した。書名は江戸到着時に詠んだ「故郷の水は乳の味さらふ酒」に依る。 享保20年(1735年)5月、沾洲『親うぐひす』の中で『綾錦』を暗に批判され、享保21年(1736年)5月『鳥山彦』乙巻において猛烈な反論を行った。
※この「沾洲派との対立」の解説は、「菊岡沾涼」の解説の一部です。
「沾洲派との対立」を含む「菊岡沾涼」の記事については、「菊岡沾涼」の概要を参照ください。
- 沾洲派との対立のページへのリンク