民事訴訟に関する公事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 04:23 UTC 版)
江戸時代においては吟味筋と称した刑事事件に対して、出入筋と呼ばれる民事事件があり、出入筋に関する訴訟、すなわち民事訴訟を指して「公事」あるいは公事出入・出入物と称した。ただし、実際には内済・相対で解決される場合においても必要な手続を「公事出入」と称するため、注意を要する(この場合の公事とは前節における一般的な裁判・訴訟を意味する公事の語である)。公事には大きく分けて本公事(ほんくじ)と金公事(かねくじ)、仲間事の3つに分けることが出来、訴状が受理された後に審理にあたる奉行・代官がそのいずれにあたるかを判断した。本公事とは家督や土地、境界、姦通(現行犯を除く)、小作、奉公人関係など権利関係の争いを指し、金公事とは金利利息の付いた金銭貸借及び預金・質権訴訟を指した。仲間事は『公事方御定書』に「連判証文有之諸請負徳用割合請取候定・芝居木戸銭・無尽金」と定義されているように共同事業・無尽・芝居木戸銭・遊女揚代など仲間内部における利益分配を巡る訴訟を指した。もっともこの区別は幕府法によるもので、藩によって公事銘の区分や呼称に違いがあったし、幕府法においても時代とともに公事銘(事件類型)の移動(本公事⇔金公事)が生じた。なお、公事の訴訟は寺社奉行・町奉行・勘定奉行並び輩下の代官が行ったが、他奉行の支配地域や他領の者との訴訟、私領間の訴訟は江戸幕府評定所が行った。本公事は公益的要素も含むために原則的において幕府によって訴訟を受理されたが、金公事は必ずしも受理されるとは限らなかった。これは儒教的な封建社会において金利を伴う取引が卑しまれた事に加え、こうした取引は相互信頼に基づくものであり本来は内部で解決されるべき問題であると考えられたからである。そして、仲間事に至っては当事者間の強い信頼関係上に成立しかつ内容自体も収益性が強く反封建的・反道徳的なものであり、紛争が生じても仲間内の責任問題であるとして訴訟の受付は行われなかった。更に当時の日本の法思想では行政権と司法権の分離は行われておらず(例えば、町奉行は江戸の行政・司法の両方の権限を有する)、却って刑事事件である吟味筋の吟味を通じた治安の確保こそが行政行為の中核と捉えられていた。更に前述のように共同体の自治に基づく内済・相対による解決を良しとする伝統的な思想があり、民衆が訴えを起こす際には原告による訴状に名主の奥印が押されていること、他領にまたがる訴訟の場合には領主による添状(大名)・添簡(旗本)の添付がない場合には書類不備を理由に却下されるなど、訴状を受理されるまでに壁が存在していた。また、子が親を訴えることや従者が主人を訴えること自体が犯罪とみなされていた。更に奉行・代官も訴訟を受けても積極的な審理を行わずに、特に金公事に関しては町役人・村役人とともに訴人に対しては訴えの取り下げと内済・相対など当事者間の話し合いによって解決させる事(実際の訴訟に至らしめないこと)を基本方針としていた。従って、公事(特に金公事)の増加によって吟味筋の吟味が滞ることは重大な問題と捉えられ、町奉行所が金公事の受付そのものを拒否する相対済令などがしばしば出された。相対済令によって公事の訴権を奪われた人々は泣き寝入りする他無かった。更に、実際の訴訟手続において法手続きに通じた公事宿・公事師と呼ばれる仲介人なくしては、内済・相対の合意や裁判の遂行は不可能であった。公事宿は奉行所の公認を受けて公事(訴訟)のために遠方から来た者を宿泊させる施設で、公事師は公事(訴訟)や内済の手続代行などを行った非公認の業者である。だが、公事宿の経営者の中には公事師と同様の業務を行ったり、公事師の斡旋業を行ったりする者もおり、実態としては大きな違いはなかった。だが、そうした公事宿・公事師の中には悪質な者も存在しており、そうした公事宿・公事師に騙されて却って財産を失うケースも頻発して人々を苦しめた。 こうしたことが民衆に裁判・訴訟に対する不信感を植え付けるとともに、支配者の統治・命令の絶対性及び訴願そのものを「恩恵的行為」と捉える政治思想が、日本における「権利」意識や「法」観念の発達に深刻な影響を与えることとなる。また、こうした訴訟体制の不備が開国後に欧米列強から、欧米並みの私権の法的保護を受けられないとする証拠とされ、治外法権などの不平等条約を押し付けられる一因となった[要出典]。
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