歴史と発見
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「ウェイゲルティサウルス」の記事における「歴史と発見」の解説
最初のウェイゲルティサウルスの報告は、ドイツ・ザクセン=アンハルト州・アイスレーベン近郊の含銅頁岩層から発見された標本 (SSWG 113/7) について1930年にヨハネス・ヴァイゲルト (Johannes Weigelt) が記載したものである。この標本は1913年にオットー・イェーケル (Otto Jaekel) によって化石商から購入されたものである。イェーケルはこの骨の棒を、同じく含銅頁岩から産出することが知られていたシーラカンスであるCoelacanthus granulatus の尾鰭の鰭棘であると考えたため、骨格を露出させるために取り除いてしまった。ヨハネス・ヴァイゲルトはイェーケルへの献名とカメレオンとの頭蓋骨の類似からこの種にPalaeochamaeleo jaekeli と名付けた。 同年、1926年にジャン・ピヴェトー (Jean Piveteau) によって記載されたマダガスカル産のCoelurosauravus elivensis との類似がフリードリヒ・フォン・ヒューネによって指摘され、両者は近縁な登攀性の動物であるとされた。1939年になってオスカー・クーン (Oskar Kuhn) によりPalaeochamaeleo という属名はすでに1903年の別の論文[De Stefano (1903)]で使用されていることが指摘され、ヴァイゲルトへの献名としてWeigeltisaurus という新しい属名が提案された。 1976年と1986年にギュンター・シャウムベルク (Günther Schaumberg) はドイツ含銅頁岩層産のウェイゲルティサウルスのさらなる標本を報告した。それらの標本にも棒状骨が保存されていたこと、棒状骨とシーラカンス類の鰭棘との類似は単に皮相的なものであるということから、Schaumberg (1976)ではその棒状骨が実際にこの動物の骨格の一部であることが主張されている。1979年、イングランド北部タイン・アンド・ウィアにあるHetton-le-Hole近くのEppleton採石場から産出した標本 (TWCMS B5937.1) が記載されたが、その産出した堆積物はMarl Slateの一部であり、含銅頁岩層と同時代のものである。この標本は1982年にSusan E. Evansにより詳細な記載がなされ、その論文中で筆者はコエルロサウラヴスとウェイゲルティサウルスを新設した科であるコエルロサウラヴス科に分類した。 1987年、EvansとHauboldはWeigeltisaurus jaekeli をコエルロサウラヴスの一種であるとして再分類し、Gracilisaurus ottoi (1930年にヴァイゲルトによってWeigeltisaurus jaekeli と一緒に記載された含銅頁岩層産のバラバラになった体骨格)もシノニムであるとした。 2007年、シャウムベルク、アンウィン、ブラントは層状骨を持つ棒状骨の薄層の存在や飛膜の展開と収納の機構などウェイゲルティサウルスの骨格の新しく判明した詳細について発表した。 2015年、2つの別々の論文で、V. V. Bulanov と A. G. SennikovはCoelurosauravus elivensis とCoelurosauravus jaekeli の再記載を行い、やはり別属とするべきであること、すなわちウェイゲルティサウルスを有効名として復活させるべきであるとの結論を下した。 2021年、ウェイゲルティサウルスのほとんど完全な標本 (SMNK-PAL 2882) の広範な記載が発表された。この標本は1992年にザクセン=アンハルト州・Ellrich近郊で採集されたもので、簡単な記載が1997年のサイエンスに掲載されたものである。標本のカウンターパート(割った頁岩などの反対側)は個人コレクションとなっており、研究者には手が届かないものになっている。
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歴史と発見
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1900年代初頭、ウィリアム・ベイトソンとレジナルド・パネット(英語版)は、グレゴール・メンデルが1860年代に記した遺伝法則の1つに例外が存在することを発見した。ベイトソンとパネットは、形質が親から子へ受け継がれる際に各形質は独立して分配される(独立の法則、例えばネコの毛色と尾の長さは互いに独立して遺伝する)としていたメンデルの考えとは異なり、身体的形質と関係した複数の遺伝子は共に遺伝する(遺伝的連鎖)ことを示した。1911年トーマス・ハント・モーガンは、通常連鎖して遺伝する形質も時には個別に遺伝することがあることを観察し、こうした現象は連鎖した遺伝子間で乗換え(crossover)、すなわち連鎖した遺伝子うちの1つが物理的に異なる染色体へ乗り換えることによって起きていると示唆した。20年後にバーバラ・マクリントックとハリエット・クレイトン(英語版)は、精子や卵細胞が形成される細胞分裂過程である減数分裂の際に染色体乗換えが起こることを実際に示した。マクリントックの発見と同じ年にカート・スターン(英語版)は、白血球や皮膚細胞といった、有糸分裂を行う体細胞でも乗換えが起こることを示し、この現象は後に組換え(recombination)と呼ばれるようになった。 1947年に微生物学者ジョシュア・レーダーバーグは、二分裂(binary fission)による無性生殖のみを行うと考えられていた細菌でも、有性生殖に似た遺伝的組換えが可能であることを示した。この業績によって大腸菌Escherichia coliは遺伝学におけるモデル生物として確立され、1958年のノーベル生理学・医学賞の受賞へとつながった。菌類での研究の蓄積をもとに、1964年にロビン・ホリデイ(英語版)は減数分裂時の組換えのモデルを提唱し、ホリデイジャンクションを介した染色体間の物質交換など、この過程がどのように機能するかについて重要な詳細をもたらした。1983年、ジャック・ショスタクらは現在ではDSBR経路として知られるモデルを提唱し、ホリデイのモデルでは説明できない観察結果についても説明が可能となった。その後の10年間に、ショウジョウバエ、出芽酵母、哺乳類細胞での実験から、ホリデイジャンクションに依存しないSDSA経路と呼ばれる他の相同組換えのモデルが提唱された。
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