朝鮮・琉球航海記
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1816年、清に通商を迫るために中国に向かうイギリス全権大使アマーストら外交団を軍艦ライラ号の艦長として北京に送り届けたホールは、同行したアルセスト号(英語版)とともに、東シナ海海域の探検・調査のため朝鮮の西海岸と琉球王国に寄港、那覇に40余日間滞在した。言葉も通じず、徹底した海禁政策のため拒絶的応対を受けた朝鮮と違い、琉球では中国語のできる官吏の真栄平房昭を通事に得て交流を深め、琉球に対して非常に良い印象を抱いた。真栄平を知性派で快活な社交家として高く評価し、帰国時には英国行きを誘ったほどだった。一行は調査や観測を徹底して行ない、全島地図も1週間余りで完成させた。 帰国後の1818年に、その時の記録を『Account of A Voyage of Discovery to The West Coast of Corea, and The Great Loo-Choo Island in The Japan Sea (朝鮮半島西海岸及び日本海上大琉球探検航海記)』としてロンドンで刊行した。琉球の人々との交流を好意的な視点から描いた本書は大いに反響を呼び、出版から2年もたたないうちにオランダ語、ドイツ語、イタリア語など数か国語に翻訳され、幾度となく版も重ねた。アルセスト号の軍医ジョン・マクロードもホールに先んじて1817年に『アルセスト号朝鮮大琉球探検記』を刊行しているが、ホールの航海記は西洋人自身によって琉球諸島と朝鮮半島を詳細に記述する最初の著作であると言われ、ヨーロッパ人の琉球理解のバイブル的存在となった。 1826年の第3版『琉球その他の東海航海記』にはナポレオンとの会見録が追加収録され、琉球には武器がなく戦争をしたことがないこと、住民は通貨の使用を知らず、物を与えても代償をとらないこと、僧侶の地位が低いことなどをナポレオンに報告したという。ナポレオンに同行していたアンリ・ベルトランによると、ホールが「閣下、琉球の人はナポレオンのナの字も知りません」と言ったとき、ナポレオンはここ何か月もの間聞いたことのない大きな声で笑ったという。ホールは武器を見かけなかったことを理由に琉球が非武装であると結論付け、結果19世紀の欧米に「琉球=非武装王国」の噂が広まった。こうした楽園的なホールの琉球観は日本や中国との通商を求める欧米列強にとって好都合で利用価値のある交易基地としてのイメージを確固たるものにし、琉球王府が苦慮していた来琉外国船をますます増やす結果を招いた。 この本は当時西洋世界で非常に人気となったため、その後に琉球を訪れた西洋人の記録にもしばしば引用され、約10年後の1827年に来琉した英国船ブロッサム号艦長のフレデリック・ウィリアム・ビーチーは著書『ブロッサム号来琉記』で、中国銭が流通していることなど、ホールの報告と異なっていた点を記録し、20年後の1846年にキリスト教布教のため琉球に派遣された宣教師のバーナード・ジャン・ベッテルハイムはホールの琉球観には否定的であり、1853年に来琉したマシュー・ペリーは『日本遠征記』の中で、琉球人は武器については無知を装い、貨幣についても金銀の価値をよく知っており、中国銭で交易もしていることを指摘した。ホールは航海記に「大琉球は、貿易からはずれたところに偏在し、島には何ら価値ある生産物がなく、かつ住民も外国物資に対してそれほど興味を示さない」と記録しているが、琉球王府は貿易にならないようホールらに少なめの食料を無料で与えて金を取らず、資源が乏しいことをアピールしたとされる。
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