方城大非常
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 21:27 UTC 版)
当時は炭鉱事故を「非常」と呼称した。大非常とは大事故のことである。開鉱6年後の1914年(大正3年)12月15日、みぞれが降る寒い朝であった。9時40分に地底から大音響が響き、昇降機が鉄塔の上まで吹き飛ばされ、坑内から噴きあげた爆煙がまっ黒いキノコ雲となり、立ちのぼって空を覆った。この爆発は非常に大きなもので、当時の証言や新聞記事では「雷が地底から吹き上げた様な」「巨砲十数門を一度に発射した如き轟音」「8キロメートル四方まで爆音が響いた」「近隣の窓ガラスは衝撃波でことごとく割れ、坑口から数百メートル以内の人が爆風でなぎ倒された」等々、すさまじさを伝えている。この爆発の衝撃で彦山川の対岸にあった三菱金田炭鉱で落盤が発生し1人が死亡、1人が重傷を負った。 吉澤一磨坑長は、対策本部を設置し事態収拾にあたった。まず坑内の消火のため排気口を封鎖し、鎮火ののち送風機を運転して坑内の排煙作業をおこなった。黒煙がようやく薄れたのは爆発後5時間を経た午後2時半ごろである。その間、吹き飛んだ昇降機が緊急修理された。 当時は坑内作業は12時間ごとの2交代制で、非番の坑夫が救援作業に招集された。坑内は「後ガス」「シビレガス」等とよばれる一酸化炭素が充満して危険な状態であった。当時は酸素マスクはなく、ガスを中和すると当時信じられていた「夏ミカン」が近隣の商店や農家から大量に集められ、半分に割って次々と坑内へ投下された。真っ先に坑内に降りる決死隊を募ったところ、数十人が名乗り出、選抜された9人は午後1時、夏ミカンを口にあて、いまだ薄煙をはく坑口から降りていった。しかし充満するガスでまもなく9人は窒息、地上に引き揚げられて手当てを受けるが、そのうち5人が死亡した。午後2時半ごろ、第二次救援隊が送り込まれるが、縦坑の破損がひどく昇降機が途中で停止。救援隊はいったん地上に出、補修資材や梯子を持って再度降下、必死の坑道修理を行って夜には坑底に到達した。続いて吉澤坑長はじめ技師や医師が入坑したが、坑道は横転した炭車や鉄のレール、坑木などが爆風で散乱する惨状であった。障害物やガスで一行は前進不能となり、吉澤坑長がガスを吸って意識不明となったため捜索は中断、一行は後退した。翌17日早朝、新たに180人以上の救援隊が組織されて大規模な救援活動が試みられるが、坑道の破壊が甚だしく、坑道補修の資材搬入すら困難な状態であった。また落盤で通気口が塞がれ、坑内に充満した一酸化炭素により、ついに早期救援による生存者救出は絶望的となった。 三菱炭鉱が公式発表した大非常の死亡者は671人である。死者のうち131人が女性で、11歳から18歳の若年者が71人(男44人・女27人)いた。また4人は救援隊で、当時の入坑者688人のうち死者は667人、生存者は21人であり、死亡率は坑内にいた者全体の97%に達し、方城大非常は公式発表のみでも今なお2位以下を大きく引き離す日本最大の炭鉱爆発事故となった(三菱鉱業社史)。当時の炭鉱で作業員は炭鉱の被雇用者ではなく「納屋」と称する多数の鉱山周辺の派遣企業に所属していた。公式死亡者数は納屋から提出された名簿を基にしているが、名簿から漏れた者も多かった上、名簿そのものを提出しない中小の納屋もあったため、当時の新聞記事では推定死者数が655人から8百人まで幅があり、また地元では死者は千人を超えていると噂された。親子兄弟の労働者も多く一家全滅が22名、また孤児784名と、扶養者を失った老人51名を生み出した。一方、石炭運搬用の馬11頭も犠牲となった。遺体捜索は年が明けてなおも続いた。遺体は8体ずつ昇降機で引き上げられ、急造の火葬場には幅2メートルほどの細長い溝が掘られて4本のレールを渡した上に棺を乗せ、石炭で火葬にした。 事故翌年、付近の神社に三菱炭鉱が慰霊碑を設置した。碑の表には「招魂碑」、裏には671人の犠牲者を記念する碑文の後に「一坑二坑役夫約三千人」と刻まれている。近隣の福圓寺では、毎年遭難者の法要が行われるようになった。
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