方向転換と和平の失敗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 08:32 UTC 版)
「ヤーセル・アラファート」の記事における「方向転換と和平の失敗」の解説
1990年の湾岸戦争で親交があったイラクのサッダーム・フセインを支持し、湾岸産油国からの支援を打ち切られて苦境に陥ったアラファートはイスラエルとの対話路線を謳う穏健派の指導者として復活を図り、1993年和平(オスロ合意)を成立させてイスラエルのイツハク・ラビン首相と会見した。翌1994年、この政治決断に対してノーベル平和賞が贈られ、和平協定に基づいてパレスチナに戻った。 1996年1月の第1回パレスチナ総選挙(英語版)では新たに設置されたパレスチナ自治政府の初代大統領にアラファートは88.2%の得票率で正式に当選し、立法評議会でファタハは定数88議席のうち55議席を得て勝利した。 イスラエルとの和平プロセスはイツハク・ラビンの暗殺から停滞したが、1998年にベンヤミン・ネタニヤフ首相とはワイ・リバー合意(英語版)を成立させた。 2000年7月にキャンプデービッドで会談したイスラエルのエフード・バラック首相は「クリントン・パラメーター」(キリスト教とイスラム教の聖地を含む東エルサレムの一部に加えてヨルダン川西岸地区の97%とガザ地区全域をパレスチナ国家として認める)を受け入れるも、アラファートは言葉を濁したため実現しなかった。同年9月28日にイスラエルのアリエル・シャロン(後の首相)がエルサレムの神殿の丘にあるイスラム教の聖地に踏みこんだ事件をきっかけにインティファーダ運動が起こり、イスラエルとパレスチナの対立は決定的となった。パレスチナ人による自爆攻撃とイスラエルの攻撃が相次ぎ、ガザ地区や西岸の状況が置かれている状況は悪化した。インティファーダの主流となった非PLO系のハマースの上級幹部マフムード・アル=ザハール(英語版)はイスラエルとの交渉が停滞したことからアラファートが指示したと述べた。イスラエルのシャロン首相は「アラファトがいる限り和平交渉はできない」として、イスラエル政府からの信頼を失っていった。アメリカのジョージ・W・ブッシュ大統領も、アラファートがテロを放置していると考えるようになった。イスラエルはアラファートをテロ蔓延の原因とみなし、2001年よりヨルダン川西岸地区のラマッラー(ラマラ)にあるパレスチナの議長府(大統領府)は長らくイスラエル軍によって包囲され、アラファートは軟禁状態に置かれた。 2003年3月19日にアラファートはアメリカ・イスラエルの圧力のもと和平推進派のマフムード・アッバースを初代首相に任命し、アッバース内閣はテロ抑制と治安の回復を掲げ、テロ抑制に対するアメリカ・イスラエルや自治政府の民主化改革に対する国際社会の期待を担い、同年6月にブッシュ大統領、シャロン首相とヨルダンのアカバで会談し、アメリカの発表した平和のためのロードマップ(英語版)を実行することで合意した。しかし、ハマスらによるテロは一向にやまず、事態は一層混迷を深めた。アラファートは警察や憲兵など複数の治安部隊を相争わせながら配下に置いており、懸案の治安回復について改革を望む首相の代表する行政機関に自らが牛耳る安全保障部門を明渡すことを拒否した。この結果、同年9月6日にアッバース首相はアラファートに辞表を提出、アッバース内閣は半年に満たない短命に終わった。これ以降、和平交渉は再び停滞した。
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