文立
蜀の時代、太学へ遊学して『毛詩』『三礼』を専修し、譙周に師事した。門弟たちは文立を顔回、陳寿・李虔を子游・子夏、羅憲を子貢に見立てた。益州刺史費禕により従事に任命され、入朝して尚書郎となり、また費禕に招かれて大将軍東曹掾になった。次第に昇進して尚書まで昇った《華陽国志》。 蜀が平定されたのち、梁州が創設されると最初の別駕従事になった《華陽国志》。咸煕元年(二六四)《華陽国志》、秀才に推挙されて郎中に叙任された。二年夏、蜀に帰ったとき譙周から「典午、忽然として月酉に没す」との言葉を聞いた。これは八月に司馬昭が亡くなることを予言したものである《譙周伝》。泰始二年(二六六)《華陽国志》、済陰太守を拝命した。その地の賢才直言の士として郤詵を推挙している《晋書郤詵伝》。また朝臣が贈り物をやり取りするのは煩瑣であるとして、その行きすぎた慣行を禁止するようにと上奏し、詔勅によって認められた《晋書皇甫謐伝》。 入朝して太子中庶子となった。諸葛亮・蔣琬・費禕らの子孫が畿内で流浪しているので、彼らを任用して巴蜀の人々の気持ちを慰め、同時に呉の人々の期待を誘うべきだと上表し、それが認められ施行された。 同十年《華陽国志》、詔勅に言う。「太子中庶子文立は忠実清廉であり、思慮と才幹の持ち主である。かつて済陰にあったときは公明な統治ぶりであったし、のちに東宮に仕えたときも教育係としての節義を尽くした。むかし光武帝が隴蜀を平定したとき、その地の賢者をみな任用したものだ。それは冷遇されている者を抜擢することにより、遠方の問題を解決するためであろう。そこで文立を散騎常侍に取り立てることとする。」文立はたびたび「側近の器ではございませぬ」と述べて辞退したが、許可されなかった《華陽国志》。 文立は側近になって以来、よいことを勧めてよくないことは遠ざけ、二州(益州・梁州)の人士を推薦するときも公平であったので、優れた人物たちにとって希望であった《華陽国志》。巴東の監軍が欠員になったとき、その人選を問われた文立は「楊宗・唐彬はいずれも優秀ですが、唐彬は金銭欲が強く、楊宗は飲酒癖がございます。陛下のご判断を仰ぎとうございます」と答えた。帝は「金銭欲は満たしてやることができるが、酒癖は直るものではない」と言って唐彬を採用した《晋書唐彬伝》。陳寿が『益部耆旧伝』十篇を著作したとき、それを武帝に献上したのは文立である。陳寿が著作郎になれたのは文立のおかげなのである《華陽国志》。 蜀の故(もと)の尚書である犍為の程瓊はかねてより徳行学績があり、文立とは深い親交があった。武帝がその名声を聞いて文立に訊ねると、文立は「臣はその人物をよくよく存じております。ただ年齢が八十に近く、生まれつき謙虚な人柄ですので、もはや時務に携わらせることは期待できません。それゆえご報告しなかったのでございます」と答えた。程瓊はそのことを聞いて「広休どのは身びいきをしないと言うべきじゃな。だからこそ吾はあの人と親しくするのだ」と言った。 そのころ西域から名馬が献上されてきた。帝が「この馬はいかがかな?」と訊ねると、文立が「太僕にご下問くださいますよう」と答えた。帝はその慎ましさをいつも評価していた《華陽国志》。衛尉に昇進した。朝廷の人々はみな文立の賢明温雅さに心服し、その時代の名卿であった。たびたび上表して「年老いたので解任していただき、帰郷して畑仕事をいたしとうございます」と訴えたが、帝は許可しなかった《華陽国志》。 安楽思公(劉禅)の世継ぎ(劉璿)は早くに亡くなったので、思公は次子(劉瑤?)を差しおいて寵愛の皇子(劉珣?)を太子に立てようとした。文立が何度も諫めたが、聞き入れられなかった。寵愛の皇子は太子に立てられると、傲慢で乱暴であった。二州(益州・梁州?)の人々はみな上表して廃位したいと思ったが、文立はそれを制止して「かの人は自分の一門を破壊しているだけで、百姓まで害を及ぼしているわけではない。父君のおかげで、あんなことができるだけだ」と言った《華陽国志》。 咸寧年間(二七五~二八〇)の末期、卒去した。文立は日ごろから故郷を懐かしがっていたので、帝はその亡骸を蜀へ届けて使者に葬儀を仕切らせ、郡県には墳墓をこしらえさせた。当時の人々はそれを栄誉なことだと思った《華陽国志》。のちに安楽公(劉珣?)が淫乱にふけり道義を失ったとき、何攀・王崇・張寅らは「文立の言葉を思い出してください」と諫めた《華陽国志》。 文立には章奏が十篇、詩・賦・論・頌が合わせて数十篇あり《華陽国志》、みな世間に流行した。 【参照】王崇 / 何攀 / 顔回 / 郤詵 / 子夏 / 子貢 / 子游 / 司馬炎(武帝) / 司馬昭 / 諸葛亮 / 蔣琬 / 譙周 / 張寅 / 陳寿 / 程瓊 / 唐彬 / 費禕 / 楊宗 / 羅憲 / 李虔 / 劉秀(光武帝) / 劉珣 / 劉璿 / 劉禅 / 劉瑤 / 安楽県 / 益州 / 犍為郡 / 呉 / 蜀 / 済陰郡 / 巴郡 / 巴蜀 / 巴東郡 / 梁州 / 臨江県 / 隴蜀 / 衛尉 / 監軍 / 公 / 散騎常侍 / 刺史 / 秀才 / 従事 / 尚書 / 尚書郎 / 太子中庶子 / 太守 / 大将軍 / 太僕 / 著作郎 / 東曹掾 / 別駕従事 / 郎中 / 太学 / 太子 / 東宮 / 益部耆旧伝 / 三礼 / 毛詩 |
文立
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文 立(ぶん りつ、? - 279年)は、三国時代末期の蜀漢~晋(西晋)初期の政治家・武将。字は広休。巴郡臨江県(現在の重慶市忠県)の人。『晋書』儒林伝に彼の伝が立てられている。
生涯
若い頃に蜀漢の太学で毛詩、三礼を学び、譙周に師事した。門人たちは文立を顔回に、同門の陳寿、李密を子游、子夏に羅憲を子貢に例えた[1]。文立は様々な書物に通じていたと言う。益州刺史であった費禕に取り立てられ、州の従事となった後、中央で尚書郎となった。費禕が大将軍となったときに文立を東曹掾とした。
魏が蜀漢を滅ぼすと茂才に推され、郎中となった。武帝司馬炎が晋を立てると、文立を高く評価し、済陽太守、太子中庶子、散騎常侍を歴任した。
旧蜀漢の高官である諸葛亮らの子孫を取り立て蜀の民心を安堵させ、呉の分裂を図った上で制圧すべきであると上表し、司馬炎はこれを受け、「諸葛亮は蜀に在って、能力と知恵を余すところなく発揮し、その子、諸葛瞻は危難に面して大義に殉じた、その孫諸葛京に才幹に照らして官職を授けるべきである」と詔を下した[2]。
司馬炎統治の西暦270年代には、九卿の一つ衛尉に昇進した。朝廷の臣はみな文立の賢明温雅さに心服し、その時代の名卿とされた[3]。たびたび上表して老年を理由に、帰郷して畑仕事をしたいと訴えたが、司馬炎は許可しなかった。咸寧年間の末に亡くなった。司馬炎は文立がたびたび帰郷願いを出していたことを思い、彼を蜀の地に埋葬し、使者を派遣して喪を取り仕切らせ、その墳墓を造らせた。文立には章奏が十篇、詩・賦・論・頌が合わせて数十篇がありその時代の流行となった。
逸話
あるとき巴東の監軍が欠員となり、その人選を問われた文立は「楊宗・唐彬はいずれも優秀ですが、唐彬は金銭欲が強く、楊宗は飲酒癖がございます。陛下がご判断なさいますように」と答えた。司馬炎は「金銭欲は満たしてやることができるが、酒癖は直らない」と言って唐彬を採用した[4]。
あるとき西域から名馬が献上されてきた。司馬炎が「この馬はどうかと」と訊ねると、文立が「(馬の専門家である)太僕にご下問ください」と答えた。司馬炎はその慎ましさをいつも評価していた。
散騎常侍に取り立てられた際に、文立はたびたび「側近の器ではございませぬ」と述べて辞退したが、司馬炎これを許さなかった。
蜀地方の尚書であった犍為郡の程瓊はかねてより徳行学績があり、文立とは深い親交があった。司馬炎がその名声を聞いて文立に訊ねると「その人物をよく存じておりますが、年齢が80に近く、謙虚な人柄ですので、政務に携わらせることは期待できません。ゆえにご報告しませんでした」と答えた。程瓊はそれを聞き「彼は身びいきをしない。だからこそ私はあの人と親しくするのだ」と言った。
陳寿が『益部耆旧伝』十篇を著作したとき、それを司馬炎に献上したのは文立であり、陳寿が著作郎になれたのは文立のおかげであった[3]。
また、旧主である劉禅の後を継いだ安楽県公劉恂(劉禅の第6子)の君主らしからぬ振る舞いを聞いて、何攀はかつての同僚の王崇・張寅とともに「以前に亡き文立の忠言を振り返って、ご自身の振る舞いを改めてくださいませ」と諫言する書簡を送ったという[3]。
評価
- 司馬炎「太子中庶子文立は忠実清廉であり、思慮と才幹の持ち主である。かつて済陰郡にあったときは公明な統治ぶりであり、東宮に仕えたときも節義を尽くした」
- 常璩(東晋の史家、華陽国志の作者)「つつましく威儀があり、聖君の感があった」
脚注
文立
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「大水滸シリーズの登場人物」の記事における「文立」の解説
(水滸伝)聞煥章の護衛。郷里の母親を支援してもらった恩もあり、聞煥章に忠実に仕える。燕青・孔亮との戦いで顔を潰されるも、後に復帰する。呂英の武術の師でもある。
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