成立までの経緯と当時の映画業界とは? わかりやすく解説

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成立までの経緯と当時の映画業界

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 08:19 UTC 版)

ダイニチ映配」の記事における「成立までの経緯と当時の映画業界」の解説

日本映画#1960年代」、「大映#1960年代」、および「日活#斜陽時代」を参照 ダイニチ映配配給ルートとして使用した日活大映は、1960年代からの日本の映画産業全体斜陽化のあおりをまともに受けた映画会社だった。 戦後娯楽として隆盛見せた日本の映画産業に、陰り見え隠れするようになったのは、1953年より登場したテレビ急速な普及大きい。 1958年11億人をピーク観客動員数減少一途をたどり、1963年には半分以下の5億人強にまで落ち込んだ。また制作本数1960年547本から下降の一途たどっていた。1964年には全国映画館数が5000館を割る。 日活では石原裕次郎小林旭中心としたアクション路線マンネリ化、それに代わる吉永小百合和泉雅子浜田光夫高橋英樹などの青春路線全盛期数年退潮食い止めることはできなかった。また社長堀久作ワンマン体質から来る放漫経営もあり、1963年石原プロモーション設立していた石原裕次郎1969年に『風林火山』を皮切りに他社映画にも出演するうになるなど、1960年代末には所属俳優流出と、経営不安表面化する1969年には撮影所を、翌1970年には日比谷本社ビルをも明け渡すことになった同様に大映でも、1966年3本立て続け公開され特撮映画大魔神シリーズヒット前年1965年からスタートしていた『ガメラシリーズ堅調興行実績上げて末期大映支え数少ないのひとつとなったり、テレビへの対応においても、テレビ室(現・大映テレビ前身制作の『ザ・ガードマン』は1965年から1971年まで放映される長寿番組となり、その後大映テレビ基盤作り上げる実績上げプラス面はあったが、その一方で1967年には映画事業赤字起因する大映巨額負債経営難表面化。もともと直営館が少な脆弱な体質加え人気スター離脱は止まらなくなった1960年代前半山本富士子解雇長谷川一夫引退続き1967年には勝新太郎独立、翌1968年には田宮二郎解雇最後頼みであった市川雷蔵1968年直腸癌発症義父永田だった雷蔵は、病をおして映画出演続けるが、甲斐なく1969年7月死去大映看板スターを失う。雷蔵穴埋めとして同月東映から松方弘樹レンタル移籍雷蔵当たり役だった『眠狂四郎』、『若親分』のリメイク作品などが製作されるが、打開策とはならなかった。 テレビ業界興隆押される形で映画産業全体斜陽化復しがたい情勢の中、看板スターを相次ぎ失った上、新人スター若手スタッフ育成ままならない状態に陥った大映日活両者は、配給網を統合ダイニチ映配設立することとなる。

※この「成立までの経緯と当時の映画業界」の解説は、「ダイニチ映配」の解説の一部です。
「成立までの経緯と当時の映画業界」を含む「ダイニチ映配」の記事については、「ダイニチ映配」の概要を参照ください。

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