成立までの経緯と構成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/29 02:24 UTC 版)
「十八家晋史」も参照 玄武門の変により兄で皇太子の李建成を排除して帝位を簒奪した太宗李世民は、房玄齢を総監として未編纂の史書を作ることを命じ、『北斉書』・『梁書』・『陳書』・『隋書』・『周書』と『晋書』が編纂された。太宗は代表作である「蘭亭序」を陪葬することを命じるほど王羲之に傾倒しており、『晋書』「王羲之伝」は自ら執筆している。既存の正史である『史記』『漢書』『三国志』などはいずれも個人が編纂したものを後に正史と定めたものであったが、太宗の欽定史書として『晋書』が編纂されて以降は史書編纂は国家事業となり、滅亡した王朝の史書を編纂することが正統王朝としての義務となった。 『晋書』成立以前にも、数多くの史家によって晋の歴史書が作られており、それらのうち代表的な18種類の書物が「十八家晋史」と呼ばれていた。『晋書』は、「十八家晋史」の内の一つである、臧栄緒の『晋書』をはじめとした晋の約数十種類の歴史書や、崔鴻の『十六国春秋』などの五胡十六国の歴史について述べられた書物などを参考にして編纂された。 本紀に記載されるのは晋の実質上の始祖である司馬懿から東晋最後の恭帝司馬徳文までであるが、載記では東晋滅亡の年より後に死去した赫連勃勃なども入っている。 西晋では、武帝・恵帝の時代に、将来の『晋書』編纂に当たって、どの時代から扱うかが議論された。荀勗は司馬懿が魏の実権を握った正始年間を、王瓚は司馬師が曹芳を廃立した嘉平年間を始期にすべきと主張したが、結論は出なかった。のちに賈謐が、武帝が皇帝に即位した泰始年間を始期にするよう主張した。正始期を支持する荀畯・荀藩・華混、嘉平期を支持する荀熙・刁協はなおも自説を主張したが、王戎・張華・王衍・楽広らの支持を得た賈謐の主張が通った。 正史『晋書』は、王朝の事実上の始祖として本紀を立てた司馬懿・司馬師・司馬昭や、竹林の七賢など一部例外はあるが、基本的に西晋での方針に従い、武帝の即位(265年)以前に死去した人物の伝記は立てていない。すなわち、実質的に晋臣として活動した人物であっても、武帝即位以前に死去した人物は原則立伝されなかった。
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