形骸化、消滅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 04:49 UTC 版)
享徳元年(1452年)からは持国と交代した勝元が寛正5年(1464年)までの12年間管領に在任していたが、その期間に義政は将軍親政を志して側近の伊勢貞親・季瓊真蘂を登用、管領を通さず命令を下達、将軍が貞親を通して訴訟受諾及び裁判を行うなど親政を試み、不知行地還付政策や家督争いへの介入で守護権力を抑制しようとした。だが、これらの政策は守護の反発に遭い、文正元年(1466年)に勝元・宗全らが起こした文正の政変で貞親・真蘂が追放され義政の親政は挫折した。 翌応仁元年(1467年)から始まった応仁の乱では、はじめ管領の斯波義廉は宗全率いる西軍に属し、将軍義政らは勝元率いる東軍に確保されており、将軍と管領が分裂することとなった。管領ではなかった勝元は管領奉書に代わり自身の発給文書によって軍事指揮を行うようになり、応仁2年(1468年)に義廉が罷免され勝元が管領に再任された後もこの方法を用いた。これによって管領が持っていた軍事的権限を失墜させる結果をもたらすと共に後の京兆専制の形成に影響した。勝元の死後は畠山政長と勝元の子細川政元が持国・勝元の時と同じく交代で管領に在任していたが、政長は従兄の畠山義就討伐に明け暮れ殆ど京都を留守にしていた状態で、政元も短期間在任と辞職を繰り返して幕政に関わらなかったため管領は形骸化していった。また、応仁の乱が幕府儀礼の一時的な縮小をもたらしたこと、斯波氏と畠山氏の分裂および領国への下向や細川勝元の早世による幼少の当主(政元)の出現などがもたらした適任者の不在が、管領の不設置・非常設化を促進したという見方もある。 一方、義政も息子の義尚に将軍の地位を譲った後、義尚が幼い事を理由に公家の日野勝光(日野富子の兄で義尚には実の伯父にあたる)に自分や義尚の代わりに御前沙汰に参画させることで管領の職務であった訴状の受付や将軍の裁許手続を行い、以降の将軍も評定衆・申次衆・内談衆と称される側近集団に同様の役割(将軍の代理として御前沙汰に参加して内容を将軍に報告・裁許を得る)を担わせた。 応仁の乱後は将軍権力及び斯波・畠山両家は衰退し、政元の細川氏が管領職を独占、政元は明応2年(1493年)の明応の政変で将軍を廃立し、専制権力を確立した(京兆専制の成立)。だが、後継者を巡って政元が家臣に暗殺されると(永正の錯乱)、細川氏は分裂して長期の抗争を繰り広げ衰退、家臣で実力者の三好長慶が台頭した。そして永禄6年(1564年)12月の細川氏綱の死後、自然消滅の形で廃絶したとされている(細川政権)。だが、既に享禄4年(1531年)の細川高国の自害をもって廃絶していたとする説もある。 通説では高国の後に晴元・氏綱が管領に就任したとされているが、両名が細川宗家の家督継承者であった事実はあっても、管領職に就任したとするのは後世編纂の『重編応仁記』・『足利季世記』などの軍記物や系譜類などのみの記載で、同時代の一次史料にはそれを示す記述はない。このため、晴元・氏綱が実際に管領に就任したことを疑問視する説がある。例えば、今谷明は『新編日本史辞典』(東京創元社、1990年)において作成した「室町幕府諸職表 執事・管領」において、細川晴元・氏綱の管領任命を事実ではないとして歴代管領から外している。浜口誠至は応仁の乱後に管領になったのは畠山政長・細川政元・高国の3名のみで、細川京兆家当主でも細川澄之・澄元・稙国・晴元・氏綱・昭元の6名の管領就任を裏付ける史料は無いとしている。浜口は細川政元以降管領が細川氏による独占(管領職と細川宗家家督の一体化)と細川宗家の家督継承者が将軍から右京大夫に任命されていたという個々の事実は間違っていないものの、江戸時代に編纂された軍記物は細川宗家の家督相続・右京大夫任官・管領補任を全て一つのものとして捉えて、戦国期の一次史料からは確認できない「細川宗家の家督継承時に管領に補任される」(更に、管領が戦国時代にも常設、実際には管領に任命されていない細川宗家当主の管領在職)という誤解を生み出したと解説している。その背景として、戦国期の管領は政治的権限を待たない、将軍の元服などの重要な儀式の時だけに任命される臨時の役職に過ぎなくなっており、細川京兆家の当主も管領の地位によらず、将軍の擁立者・後見人として将軍の任免権に左右されることなく政治的権力を行使する存在であったとする説も出されている。 なお、近年の説の見解に基づけば、細川晴元と氏綱の戦いの最中である天文15年(1546年)に行われた足利義藤(後の義輝)の元服と将軍宣下の際に義藤の烏帽子親の役目を行う新たな管領が任じられる可能性があり、細川晴元派の六角定頼と細川氏綱派の遊佐長教が烏帽子親=管領任命の政治工作に動いていたが、交戦中の両者が元服の儀に参加する事は不可能であったため、六角定頼が管領代となって烏帽子親を務めたことにより、管領は任命される事は無かった。
※この「形骸化、消滅」の解説は、「管領」の解説の一部です。
「形骸化、消滅」を含む「管領」の記事については、「管領」の概要を参照ください。
- 形骸化、消滅のページへのリンク