形骸化と廃止
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/15 07:47 UTC 版)
軽便鉄道法も参照のこと この鉄道国有化は、私設鉄道の世界、そして当法にとっては大きな打撃となった。事業者の半分以上が消滅したというのもあるが、それ以上に法律の規定があまりに厳しいために敬遠されてしまい、私設鉄道会社の新規設立が鈍ったということが大きい。また日清戦争・日露戦争と二度も戦争をした政府自身も地方の小路線については民間頼みにせざるを得なかったため、このような状況は頭の痛いものであった。 そこで政府は当法を補佐し、民営鉄道事業者の設立と建設を促進する法律として、1910年(明治43年)4月21日に軽便鉄道法を公布した。これは当法でこと細かに定められている事項をほとんど省略し、設立・敷設の手続きを可能な限り簡素化したものであった。当法の準用規定はあったものの全98条中8条のみ、それも政府が強い統制を及ぼす部分は外しての準用という有様で、会社の自由度は当法とは比べものにならないくらいに高くなっていた。また同時に軽便鉄道補助法が制定され、国の補助が約束されるなど、政府にしてみれば大サービスというべき政策が採られることになった。 この軽便鉄道法の施行により、自由度が高く補助金までもらえるとあって各地の実業家が飛びつき、軽便鉄道会社が大量に設立された。しかしその一方で、私設鉄道から軽便鉄道への変更も認められていたために、既存の事業者までもが私設鉄道から軽便鉄道へと続々と会社種別を変更し、当法に準拠した事業者がどんどん減少して行くという事態が発生してしまった。その理由は当法の窮屈さ、なかんずく賃率の規定の厳しさに会社が音を上げたためで、図らずも地方鉄道網の充実を図るための政策が、結果的に当法の首を締め上げることになってしまったのである。 またそれ以前、1905年(明治38年)に阪神電気鉄道が実体は鉄道ながら「軌道」としての特許を認められ、軌道扱いで開業したことに追随して、大都市周辺の民営鉄道が「軌道」として特許申請・開業する例が増えていたことも、当法を追いつめる要因となった。 このようにして私設鉄道法忌避の傾向が続いた結果、ついに1918年(大正7年)には当法に準拠した路線が消滅するという有様となり、当法は軽便鉄道法にある準用規定のためだけに存在する形骸化した法律となってしまった。 この状況を是正するため、政府は当法と軽便鉄道法を廃止するとともに、軽便鉄道法をたたき台にして両者を統合した法律を新たに制定することを決定し、1919年(大正8年)4月10日に地方鉄道法を公布した。そして同年8月15日の地方鉄道法施行とともに、当法は条例時代から数えて33年間にわたる役目を終え、廃止されたのであった。
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