形質論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/14 17:38 UTC 版)
埴原和郎の「二重構造モデル仮説」によれば、旧石器時代から縄文時代にかけては南方系アジア(スンダランド説)から琉球弧を通って日本列島に縄文人が広がり、弥生時代以降には渡来人が本土西日本から広がる一方で北海道や琉球弧には及ばなかったため、琉球人は縄文的形質を残したとされる。更新世(洪積世)最終氷期(旧石器時代とそれ以前)に、琉球弧が大陸とある程度地続きもしくは狭い海峡を挟んで大きな列島状であったことを示唆する地質学上の研究も、埴原仮説を支持している。 埴原仮説に対して形質人類学上の研究では、琉球人は形質・遺伝的には「南方系由来の縄文人」とするよりは、むしろ北方系(すなわち日本本土の縄文人や渡来系弥生人由来)の形質が優勢であるとされ、土肥直美は、琉球先史時代の人はいわゆる本土縄文人とは異なる形質を持っていることや、中近世になって琉球人が骨格上も本土大和人に近似してくることを指摘している。
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