工業化以後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/09 19:37 UTC 版)
ムルハルトは、1806年から1938年までオーバーアムト・バックナング、1938年から1972年まではバックナング郡に属し、1973年にレムス=ムル郡に属すことになった。 19世紀初めにヴュルテンベルク王国になっても経済状況は貧しかった。ナポレオン戦争は、通過する軍隊や、この街に宿営する兵士によって、住民たちに重くのしかかった。1806年にオーバーアムトがバックナングに移され、1838年には最後に残っていた全国的な役所の財務局も移転した。それ以前に街の経済を支えていた修道院や領邦の役所を含む公共機関は、もはや無くなった。それにもかかわらず人口は増加した。1830年頃に人口は2,000人を超え、商業、手工業、産業が徐々に成長していった。 ムルハルトでは当時からすでに自由主義的=民主主義的考えを持った市民がいた。その最も有名な人物がフェルディナント・ネーゲレ(1808年 - 1879年)である。1848年3月、ドイツで初めて直接選挙によって選ばれた議会であったフランクフルトのパウルス教会での国民会議の代議士に、彼は職人として唯一選出された。ドイツにおける1848年革命の失敗後、1853年に彼は市長に選出されたが、ヴュルテンベルク王国内務省の命令によってネーゲレはその地位に就けなかった。それでも彼は死の直前に到達した重要な目標について引き続き議論を重ねた。ムルハルトが王立ヴュルテンベルク邦有鉄道に接続することが「新しい時代の始まり」のメルクマールであった。 それ以前のムルハルトは交通の接続が不便な場所であった。1843年9月に初めて旅館「ゾネ」に郵便の窓口が設けられ、これ以後「ゾネ=ポスト」と呼ばれた。物品はほとんどが馬車で運ばれた。ムルタールの住民は、ムルタール鉄道がムルハルトにまで達した1878年まで鉄道を待たなければならなかった。これがこの街の経済史の転換点となった。この地域の主力製品であった木材が鉄道により便利に輸送できるようになったことで競争力を再び獲得したのであった。 1934年12月22日、ムルハルトとズルツバッハとの間、シュライスヴァイラーの高台で、信号故障によって重大な鉄道事故が起こった。単線区間で2編成の列車が衝突し、10人が死亡した。この鉄道は1996年に電化された。これによりシュトゥットガルトSバーンへの接続が可能となったが、資金を理由にまだ実現していない。2005年10月、フィヒテンベルク付近での路線遮断のために、例外的に2日間だけSバーンの列車がムルハルトに運行した。 皮革の街バックナングに隣接していることから、19世紀末に有名な皮革製品製造業者シュヴァイツァーがこの街に進出した。その工場は現在も街の景観を形作っている。その後早くも1970年代にはバックナングでの製造が廃止され、2002年にはムルハルトでも同じことが起こった。より安いコストで製造された外国製競合品がその理由であった。 有名なゼーンレ=ヴァーゲン(秤)のメーカーであるゼーンレ社は19世紀末に地元の同名の家族によって設立された(かつての名称はエプシュタイン社)。この会社は1930年代に「レフォルムヴァーゲ」(乳児用体重計)を発売し、第二次世界大戦後に工業系企業に発展した。この会社はムルハルトとスイスに生産拠点を残しており、2002年まで同族経営を続けたが、自助売却によってナッサウのライフハイトAGに吸収された。コストを理由にムルハルトでの家庭・個人用体重計の製造を廃止し、ナッサウに移転したが、商標は引き続き使用している。マネジメント・バイアウトによって、工業・商業・産業・医療用の測定器製造はゼーンレ・プロフェッショナル GmbH & Co. KG として初めは本市で行っていたが、これも2008年にバックナングに移転した。 国家社会主義の時代、メインストリートが「アドルフ=ヒトラー通り」と改名され、祝祭日にはハーケンクロイツの旗が掲げられ、「茶色い大隊」が移動を妨げた。 第二次世界大戦でムルハルトは、その市区が何度も爆撃を受け、これによって特に駅施設は被害を受けた。1944年末、ヴュルテンベルク内務省はムルハルトの市立ホールに疎開した。1945年4月にアメリカ軍がヴュルテンベルクを占領すると、この建物は野戦病院となった。1945年4月19日のアメリカ軍入城によりムルハルトにおける第二次世界大戦は終結した。これに先立って、宿屋の主人兼肉屋のヴィルヘルム・マウザーは街の破壊を阻止した。彼は国民突撃隊員とヒトラーユーゲントを武装解除した。かつて青島で皇帝軍の海兵隊員であった彼には戦争経験があった。彼を駆り立てたのは、ドイツ兵が防衛を試みた結果起こったアメリカ軍の砲撃と空爆によるフォルンスバッハ(隣村)のほぼ完全な破壊であった。 20世紀に旅館「ゾネ=ポスト」は、その高級料理によって郡内全域で有名になっていた。第二次世界大戦終戦直後の1945年6月20日、アメリカ軍占領地域北部ヴュルテンベルクの郡長が集まる、いわゆる郡長会議がここで開催された。これが、ヴュルテンベルクの民主主義的な新秩序の始まりであると見なされている。1974年のワールドカップの際には、ポーランド代表チームがムルハルトの「ゾネ=ポスト」に滞在した。彼らは、予選リーグ3試合のうち2試合をシュトゥットガルトのネッカーシュターディオンで戦った。その練習グラウンドはムルハルトのトラウツェンバッハシュターディオンであった。1994年に旅館「ゾネ=ポスト」は市に買収された。建物内には、市議会に利用されるボーフィンガーザールのほか、多くのクラブ/協会が入居した。現在この建物は、近隣の住居に配慮して歴史的な外観で再建されている。
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