工業化の時代の マイン川交通
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「マイン川」の記事における「工業化の時代の マイン川交通」の解説
19世紀の鉄道の普及は、当初マイン川の船舶輸送の低落を招いた。蒸気船が採用されたとはいえ、それは積載量1000ツェントナー (50t) の小型船であった。19世紀の中頃、ライン川には積載量16,000ツェントナー (800t) の船が航行しており、マイン川への輸送の際には、積み荷をマインツまたはグスターヴスブルクで移し替える必要があった。その上、季節毎に河口付近が砂で浅くなってしまい、船の航行がしばしば妨げられた。ヴィースバーデンへのタウヌス鉄道(1839年)、フランクフルト=ハーナウ鉄道(1848年)、マインツへのマイン鉄道(1863年)が開業し、マイン川の船舶輸送は、それまで年平均20万tほどであったのが劇的に減少し、最低を記録した1879年には93,400tにまで落ち込んだ。同じ年に鉄道でフランクフルトに到着した貨物は140万tに及んだ。 フランクフルトの上級市長マム・フォン・シュヴァルツェンシュタインの主導で、マインツとフランクフルトの間に、長さ36kmのマイン川のバイパスとなる運河を掘削する計画が1868年に提唱された。この計画は何度も修正がなされ、結局1875年に、マイン川自体を運河化し、水位を1.5m嵩上げして2.2mとする事でマイン川の船舶輸送に間に合うと判断された。1882年から1885年にマイン川下流域のマインツからフランクフルトの間に5つの堰(コストハイム、フレーアスハイム、オクリフテル、ヘヒスト、ニーダーラート)が建設された。1886年には、マイン川北岸、フランクフルト西部に大規模な港、Westhafen(西港)が開港した。同時に、その対岸には、Kohlehafen(炭港)が設けられ、1912年まで稼働していた。1905年までの西港の貨物取扱量は1,565,000tで、その半分がルール地方からの石炭やコークスであり、帰りには砂や玉砂利が運び出された。西港は落成の10年後にはすでに過負荷になっており、1912年には、これよりも明らかに広大で新しい港、Osthafen(東港)が開港した。 1920年代になると、水門施設を有する5つの堰だけでは、マイン川を航行する船舶を捌ききれなくなった。このため1927年から、水力発電の機能と大規模な水門施設を有する3つの堰(コストハイム、エッダースハイム、グリースハイム)が建設された。
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