工業化の時代とドイツ帝国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/28 01:38 UTC 版)
「デトモルト」の記事における「工業化の時代とドイツ帝国」の解説
19世紀末頃に市民が裕福になり、町の景観にもそれが現れた。デトモルトの人口は、1880年の 8,053人から 1910年には 14,294人となるまでに急速に増加した。デトモルトはこの時代に、手工業者や農耕市民の街から近代的な侯国の首都へと発展していった。 1898年、摂政エルンスト・ツア・リッペはデトモルト市にベルレベッカー泉の永久使用権を授けた。水道管網は、909軒、4,000の蛇口につながった。これを記念して、1907年に彫刻家ハインリヒ・ヴェフィングにより摂政記念碑が城館広場に建立された。 1907年5月17日にデトモルトに新しいシナゴーグが完成した。落成式には、政治、教会、コミュニティーの代表者とともにリッペ侯レオポルト4世と侯妃ベルタも出席した。デトモルトとその周辺地域の苦情によってアンドレアスメッセが廃止され、その替わりに同じ期間に遊園地を設けることが決定された。しかしこれは住民にとって満足できる解決策ではなく、わずか1年後に遊園地は廃止され、アンドレアスメッセが再開された。このメッセは11月の最終水曜日から次の日曜日まで、毎年多くの訪問客を集めている。 第一次世界大戦では、デトモルトに駐屯していた第3大隊第55歩兵連隊の隊員、4,000人以上が死亡した。1917年5月31日の弾薬工場の爆発事故で、その多くが若者の72人が死亡した。 デトモルトは1918年までリッペ家の宮廷所在地であり続けたが、侯の廃位後はリッペ自由州の州都となった。
※この「工業化の時代とドイツ帝国」の解説は、「デトモルト」の解説の一部です。
「工業化の時代とドイツ帝国」を含む「デトモルト」の記事については、「デトモルト」の概要を参照ください。
- 工業化の時代とドイツ帝国のページへのリンク