工業化と成長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/04 02:17 UTC 版)
「グリーンズボロ (ノースカロライナ州)」の記事における「工業化と成長」の解説
1890年代、グリーンズボロ市はボルティモアのモーゼス・アンド・シーザー・コーンなど北部の製造業からの注目を引き続けた。コーン兄弟は大規模な繊維工場を建設し、10年間の内にグリーンズボロを村落から都市に変えた。1900年までに、グリーンズボロは南部繊維産業の中心と見なされるようになった。大規模な工場がデニム、フランネルやオーバーオールを生産した。繊維産業を通じてもたらされた市の繁栄は、ギルフォード郡郡庁舎、S・W・フォークによるウェストマーケット通りメソジスト教会、フランク・A・ウェストン設計による幾つかの建物、およびオルロ・エップス設計になるノースカロライナ大学グリーンズボロ校本館など20世紀に著名となった公共建築物が建設されることになった。 20世紀の間、グリーンズボロは富と人口の拡大を続けた。急成長によって、地元出身の建築家チャールズ・ハートマンやハリー・バートンに設計された大きな商業ビルや公共建築物の建設に繋がり、それらの多くは現在も残っている。他にもビックス化学会社(バポラブやナイキルのような抗感冒薬で有名)、カロライナ製鉄会社、およびポモナ・テラコッタ製作所など著名な製造業が市内に設立された。この成長期間、グリーンズボロは厳しい住宅不足を経験した。建設業者は労働者に住居を供給するために年間80ないし100戸の住宅建設を目標にしようとした。グリーンズボロの不動産は1920年代に「州内の不思議」と考えられた。世界恐慌の間も成長が続き、グリーンズボロでは年間推計200家族が増えていった。市は教育、公園および利益の出る雇用条件を強く打ち出す計画の行き届いた地域社会という評判を得た。 グリーンズボロがノースカロライナ州の主要都市の一つになるにつれて、その伝統的社会構造に変化が起こった。1960年2月1日、ノースカロライナ農業・工業大学の4人の学生が白人のみに認められていたウールワースのランチカウンターに腰掛け、サービスを断られた後も退席を拒んだ。その他にも大勢がこのシット・インに加わり、数ヶ月も続いた。このような抗議が南部中に拡がり、最終的にはウールワースなどチェーン店での人種差別撤廃に繋がった。最初のカウンターとストールは現在スミソニアン博物館に収められているが、この出来事が起こった当初のビルの場所に現在博物館が建設中である(2007年時点で、国際公民権博物館の開館は緊縮財政のために延期されている)。 この繁栄によって全国および国際的に知られた建築家を巻き込むような新しいレベルの開発が行われるようになった。ヴァルター・グロピウスは1944年の工場の建物を設計した。グリーンズボロを本拠にするエド・ローウェンスタインはこの地域全体にわたるプロジェクトの設計に貢献した。エドアルド・カタラーノとジョージ・マツモトは、モダニストの建築概念と様式を持つノースカロライナ人に対抗する設計を市にもたらした。 この時代の進展にも拘わらず、古い傷がまだ癒えていなかった。1979年11月3日、共産主義労働者党が反クー・クラックス・クラン集会を開いた時、1群のクー・クラックス・クランとネオ・ナチスのメンバーが集会の開かれているモーニングサイド・ハイツ近くで集結し抗議集会を襲撃した。地元のテレビ4局が事の起こった様を録画した。共産主義労働者党オーガナイザーによって拳銃が発砲された(空中に向かってとされる)可能性があり、クランのメンバーが停止する前に棒で殴られたのではあるが、反クラン抗議者だけが負傷し殺された。共産主義労働者党のメンバー5人が死亡し、7人が負傷した。テレビ局が撮影した映像が全国や世界に流され、この出来事はグリーンズボロ虐殺と呼ばれることになった。告発されたクランとネオ・ナチスのメンバーは全員、2つの刑事裁判で全て白人の陪審員により無罪とされた。1985年の民事裁判では、5人の警官と他に2人の民間人が物損に対して35万ドルをグリーンズボロ・司法基金に支払うよう判決された。 2007年、イボンヌ・J・ジョンソンがグリーンズボロ市では初のアフリカ系アメリカ人市長に選出された。
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