工業化と1842年以降のタバコ産業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/12 10:27 UTC 版)
「ビュンデ」の記事における「工業化と1842年以降のタバコ産業」の解説
ラーフェンスベルク地方の文化圏に属すビュンデ周辺は、19世紀に集中的に工業化がなされた。この際、ドイツのタバコ産業の中心となった点に特殊性がある。このため、ビュンデはツィガレンシュタット(タバコの都市)として知られていた。19世紀から20世紀の替わり目頃には 20以上のタバコ製造業者がビュンデに本社を置いており、ドイツで販売されるタバコの大部分がこの街で製造されていた。印刷業者や段ボール製造業、シガーボックス製造業といったタバコ以外の産業は、タバコ産業とともに発展した。その基礎は、ゲオルク・マイヤーが1842年に購入したエッシュ通り21番の建物に置かれた。しかし、本当の発展の歴史は、ブレーメンでタバコ製造業を学んだムックム出身のテンニース・ヴェレンジークの企業理念によって始まった。彼は、その手で「茶色い黄金」をビュンデにもたらし、1843年にエニヒローの両親の家で起業した。3年後に 8人の従業員を雇い、会社をエッシュ通りに移転した。1856年、ヴェレンジークはメッシェーデ出身のアウグスト・シュタインマイスターとともにシュタインマイスター&ヴェレンジーク社を興した。1848年にはヘルフォルト郡内に 18社のタバコ製造業者があった。タバコは(特に周辺の農村部では)内職で作られてもいた。1855年の鉄道オスナブリュック - レーネ線の建設によって、当時オランダから運ばれていたタバコ原料の輸送はより効率的になった。このためタバコ産業は急速に発展し、1862年にはビュンデ市に 3,000人、周辺地区に 2,000人の下請け労働者を擁するに至った。1900年のビュンデと周辺の人口は 4,800人であったが、3,372人が 84のタバコ業者で働いていた。 1960年代にタバコの需要が減少したことで、ビュンデのタバコ産業は衰退していった。特にこの街の企業は人気のあるタバコを製造するなどといった時宜にかなった生産を行わなかった。また、ナチス時代に紙巻き機を禁止されたことで、国際競争力の点で不利な立場に置かれたことも原因の一つであった。
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