工業化と公害、労働争議
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 06:26 UTC 版)
「川崎市の歴史」の記事における「工業化と公害、労働争議」の解説
川崎に初めて進出した大工場は、1907年(明治40年)に御幸村南河原に建設された横浜製糖(現在の大日本明治製糖)川崎工場であった。同年に東京電気(現在の東芝)が操業を始め、その他富士紡績(現在の富士紡ホールディングス)川崎工場、浅野セメント(現在の太平洋セメント)、日本蓄音機商会(現在の日本コロムビア)、日本鋼管(現在のJFEエンジニアリング)、鈴木商店(現在の味の素)、いすゞ自動車、第一セメント(現在のデイ・シイ)など従業員1000人以上の企業が次々と進出し、川崎町は京浜工業地帯の中心のひとつとなった。 鈴木商店は川崎町久根崎に工場を完成させ、1915年(大正4年)から操業を開始した。工場から排出される塩素ガスが公害をもたらし、1923年(大正12年)には大師町の漁師約1200名が鈴木商店川崎工場におしかけて、海苔の被害の責任を追及したが、鈴木商店はそのつど若干の解決金を手渡すのみで抜本的な解決とはならなかった。 富士瓦斯紡績工場は1925年(大正14年)に工事が完了し操業を開始、以後戦前まで全国でも有数の紡績工場であった。昭和初期まで多い時で6000人前後が働いていたが、その多くは現在の小学生、中学生の年齢の少女が、当時の全国の他の紡績工場と同じく、劣悪な環境下で働かされ社会問題化した。多くの労働争議の中で、1930年(昭和5年)の「煙突男事件」は日本よりも海外で大きく報道された。 田島村から町田村の海浜では、浅野総一郎らによる広大な埋立地造成の事業が開始された。品川と横浜の間の海は未だ遠浅で、転覆事故が相次いでいたことから、浅野総一郎は京浜運河の建設も手がけた。臨海部の埋め立て地には日本鋼管ほか大工場が進出した。 浅野セメントは粉塵問題で東京・深川で住民と対立し、1917年(大正6年)に川崎に工場を移転した。地元の反対を押し通した移転後も周辺への粉塵被害は大きく、大正から昭和にかけて、梨や海苔生産に被害を受けた大師河原村ほか周辺住民は、しばしば集会を開き抗議行動を行った。1927年(昭和2年)には大師町代表が国や県に抗議を行い、同年8月29日には大師町民およそ200名が浅野総一郎社長宅に押しかけるという事件も起こった。 工場の建設に携わる労働者は地方出身者で、労働条件や賃金をめぐるトラブルは絶えず、明治時代後半から、労働運動は自然発生的に始まった。友愛会初の地方支部となる川崎支部は、1913年(大正2年)に発会し、大正時代の川崎の労働運動に影響を与えた。
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