寄席芸としての隆盛期
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その後、山の手の端席から都心の大きな寄席への進出が盛んになっていく。しかし、職域を侵され始めた講談や落語からは「ご入来」と蔑視されていた。 大阪でも浮かれ節専門の寄席(1884年(明治17年)から1889年(明治22年)にかけて、天満「国光席」、松島「広沢館」、千日前「愛進館」など)や浮かれ節の組合(岡本義治の版権問題に対応する必要から愛国社を明治28年に結成。のちの「親友派組合」から親友協会に至る)ができた。 1892年(明治25年)頃には、浪花節の寄席定着があり、東京では勢いが増す。落語や講談と紛争が起きている。明治26年に講釈師・落語家と浪花節語りとの合同演芸会が遊楽館で企画されたが、講談・落語側が共演を拒否。手打ちとして1894年(明治27年)2月10日・11日、神田「錦輝館」にて三派大集演芸会が開かれる。(落語柳連)三代目春風亭柳枝、初代談洲楼燕枝、(浪花節連)初代鼈甲斎虎丸、浪花亭駒吉、(落語三遊連)四代目橘家圓喬、初代三遊亭圓遊。 1897年(明治30年)、斎藤緑雨がその作品『おぼえ帳』に書いた頃には、都心の東京日本橋葺屋町(元吉原そば)の「大ろじ」に浪花節が出演し、駒吉や、門下の浪花亭峰吉や浪花亭愛造の活躍もあり、1900年(明治33年)には、東京市内の寄席120軒のうち53軒が浪花節を主にかける(定席)までに勢いを増す。従来「御入来」(ごにゅうらい)と言われ、代名詞として蔑まれた要因でもあった外題付け(物語の導入部)を、主題ごとに改め、物語の内容を改良し、衣装を黒紋付袴姿にするなどして芸格を上げる。 このように明治中期には東西で、主任を務める形の寄席芸としての地位が確立された。 東京の浪花節には増えた出番を求めて、名古屋(早川辰燕、初代鼈甲斎虎丸、末広亭清風など)や大阪(京山大教、京山恭為など)から浮かれ節語りが続々と上京・参入する。出番を巡って神田「市場亭」や芝「伊皿子亭」などの有力席亭主側と関東の地元芸人側で対立し、芸人を中心に「関西派(神田組)」と呼ばれる愛進舎(辰燕、虎丸、清風、三河家梅車、二代目吉川繁吉(後の雲右衛門)など)と「関東派(浅草組)」と呼ばれる共盛会(浪花亭一派、初代東家楽遊、武蔵家嘉市、春日亭清吉など)に分かれ、この構図はさらに分派を産みながら大正時代も続く。 また別の流れとして、熊本県から九州一帯を制覇していた「糸入り軍談」美当一調が1898年(明治31年)に上京し、九段の偕行社にて、東宮他皇族、各大臣、陸軍将校の前での公演を、1902年(明治35年)には6月18日から6日間、東京・銀座歌舞伎座で浪花節関連では初の公演をしている。昼夜二回にわたり教育活動写真と合わせて、日清戦争談や北清事変を口演(神田錦輝館、明治座でお名残公演を行っている)。。明治39年末にも上京、浪花節連の助演を得て慈善公演する。 1903年(明治36年)、愛造は浪曲界で初めてのレコード盤吹き込みをする(当時はSPレコード)。1906年(明治39年)には東京で浪花節人気が大きく盛り上がり、10月には『都新聞』の演芸三傑の投票があり(芸能界の人気投票は明治時代には既に盛んであったわけである)、その年の流行をまとめた「エスペラントと浪花節」という言葉が新聞に踊った。この頃、名古屋を中心に大流行した(説経)源氏節がある。
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