寄席文字の復興
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寄席のビラ字(現代風に言えば寄席宣伝ポスターの文字)は江戸期から専門の職人が書いていたが、寄席の軒数が減少すると次第に職人がいなくなってしまった。やむなく各寄席で間に合わせ的に書くようになったが、専門職ではないため統一した様式は失われていった。橘右近は落語家時代から寄席にまつわる物を収集しており、『ビラ辰』などのビラ字を教えを乞う師匠がいない状態から見よう見まねで書き始め、自身のスタイルを確立していった。弟子の橘左近に語るには「最初のころのは見せられないくらいひどい」出来だったという。昔の名人が書いたビラ字を見てきた古い噺家(落語家)たちや席亭がいたのでうるさかった。ことに5代目柳亭左楽と新宿末廣亭席亭北村銀太郎がひかえていたので真剣だったと語っている。
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寄席文字の復興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/03 06:47 UTC 版)
上述のように、ビラ字は専門の職人によって書かれたが、寄席の軒数が減少すると次第に職人がいなくなってしまった。やむなく、それぞれの寄席で間に合わせでビラ字を書くようになったが、専門職の手を離れると、それまでの統一された様式は徐々に失われていった。そして、大正12年(1923年)9月の関東大震災を契機にビラ字はすがたを消してしまったのである。 第二次世界大戦後、「昭和の名人」といわれた落語家8代目桂文楽(1892年 - 1971年)は、1949年(昭和24年)に落語家を廃業し、寄席の楽屋主任およびビラ字書家専業となった橘右近(1903年 - 1995年)に対し、「寄席文字」の流派を創始して、その家元になることを提案した。橘右近はそれまで寄席にまつわるさまざまな文物を収集していたが、ビラ字の師匠がいない状態から見よう見まねで書き始め、2代目ビラ辰の流れを汲みつつ、自身のスタイルを確立していった。 こうして橘右近は桂文楽の勧めにしたがい、1965年(昭和40年)、「橘流」を創始して、ビラ字を「寄席文字」として復活、その家元となって寄席文字の普及と後継者の育成に力を注いだ。これにより、今までなかったビラ字の一門が確立されたのみならず、寄席文字の地位が飛躍的に向上した。 しかしながら、右近が自身の一番弟子である橘左近(1934年 - )に対して語ったところによれば、「最初のころのは見せられないくらいひどい」出来だったという。かつての名人が書いたビラ字を見てきた古い噺家たちや席亭の目は特に厳しく、しばしば酷評にさらされた。ことに、口うるさい5代目柳亭左楽と新宿末廣亭の席亭北村銀太郎がひかえていたので「橘流」の創始は真剣そのものであったという。 右近は、左近・右京を育て、自分にとっても勉強になるからと「寄席文字勉強会」を立ち上げ、そのなかから右一郎、右之吉、とし子、右之輔、右橘、右太治、右龍、右樂、右女次、右朝、右佐喜、右雀、右喜与、右門、紅樂が橘流の寄席文字を受け継いだ。右近は1994年(平成6年)、橘流の将来を考え、家元は一代限りとし、後任を「寄席文字橘会」と名付けた一門の集まりに委譲し、家元の印章もそこに納めることとした。 右近亡きあと、「寄席文字」の技術と伝統は左近・右京をはじめとする右近の門弟たちに継承され、寄席の情緒をかもしだす重要な役割を果たしている。 橘流は平成以降の落語協会・落語芸術協会の真打昇進・襲名披露等の際には個人名が書かれた招木を贈呈してきたが、令和元年9月の落語協会の真打昇進披露から中止となっている。
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