婚礼前後とは? わかりやすく解説

婚礼前後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 02:21 UTC 版)

池田厚子」の記事における「婚礼前後」の解説

1951年昭和26年)春、中国・四国地方訪問した際に岡山県岡山市池田動物園池田牧場視察したその後後楽園荒手茶寮にて動物園牧場経営者である池田隆政面会機会設けられ隆政精悍な姿が厚子内親王に強い印象与えた。これはマスメディア知られない形での、実質的なお見合いであった隆政備前岡山藩主家系で、厚子内親王とは曾祖父久邇宮朝彦親王同じくする又いとこ(はとこ)同士であった5月入り稲田周一侍従次長隆政面会し香淳皇后厚子内親王意思確認したことは、国民に「本人たちの自由意思尊重した」と受け止められた。東京岡山遠く、姉宮の和子内親王時ほど頻繁に会うことはできなかったが、二人文通交わした。また隆政取材直接的な質問に対して厚子内親王のことを「エゝ、好きですね」と答え厚子内親王も会うたびに「お互い理解愛情が深まる」と発言した報じられた。 その後6月末に正式に見合いの場が設けられ婚約内定仲人あたったのは松平康昌同年5月17日祖母皇太后節子貞明皇后)が崩御してから2か月足らず時期であったが、実父である昭和天皇は、第1期服喪期間50日間過ぎた7月10日田島道治宮内庁長官命じて順宮厚子内親王池田隆政との婚約内定した旨を公式に発表させた。なお、1947年昭和22年)に廃止され皇室服喪令によれば祖母である貞明皇后対す皇女厚子内親王服喪期間150であった最長昭和天皇などで1年間となる)。服喪期間中にさらには皇族会議経ず昭和天皇自らの裁可による婚約発表異例であった元華とはいえ内親王結婚相手が、首都から遠距離にある岡山県、しかも農場主というのは極めて異例なことであった。しかし「岡山(=地方定住)」「牧畜業」というキーワードにより、皇族内親王と言う高貴な存在が、国民身近に降り」てきた象徴的な出来事として受け止められた。牧場主の妻となる覚悟について母后から問われ厚子内親王は、キッパリと「はい」と答えたという。 1952年昭和27年4月厚子内親王新居確認するため2泊3日岡山県訪問したこの際二人仲睦まじく微笑ましい姿が盛んに撮影され報じられた。この後皇族全員の喪が明けた同年1952年昭和27年5月24日納采の儀9月16日告期の儀執り行われた。婚礼準備に際しても、姉宮同様、質素ぶりが強調され報じられた。朝鮮戦争による好景気朝鮮特需)によって国民生活豊かになりつつあったが、それでもなお一般女性比して豪奢であると批判もあり、皇室民主化と再権威化の矛盾表面化しはじめていた。 10月10日隆政降嫁し、皇籍離脱臣籍降下)した。皇居前広場にはバスツアー観光客をはじめ5000人が、高輪光輪前に3000人が詰めかけて厚子内親王祝福する熱狂ぶりであった婚礼には、姉鷹司和子の時と同じく天皇・皇后揃って参列する予定であったが、父天皇風邪のため出席断念したまた、このとき皇后初め公の場和服着用し慶事話題花を添えた夫妻婚礼から5日後に寝台列車岡山向かったが、東京駅でも盛大な見送りがあり「もみくちゃにされた」と報じられた。岡山県では三木行治知事厚子特別扱いすべきではないと表明していたにも関わらず岡山駅には1万人が集う熱狂的な奉迎が行われ、オープンカーによるパレードも車が立ち往生する混乱となった。あまりの熱狂ぶりに、10月下旬には隆政自身が、以後招待辞退する旨を記者会見開いて表明した

※この「婚礼前後」の解説は、「池田厚子」の解説の一部です。
「婚礼前後」を含む「池田厚子」の記事については、「池田厚子」の概要を参照ください。

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