婚礼前後
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1951年(昭和26年)春、中国・四国地方を訪問した際に岡山県岡山市の池田動物園や池田牧場を視察した。その後、後楽園荒手茶寮にて動物園と牧場の経営者である池田隆政と面会の機会が設けられ、隆政の精悍な姿が厚子内親王に強い印象を与えた。これはマスメディアに知られない形での、実質的なお見合いであった。隆政は備前岡山藩主の家系で、厚子内親王とは曾祖父久邇宮朝彦親王を同じくする又いとこ(はとこ)同士であった。 5月に入り、稲田周一侍従次長が隆政と面会し、香淳皇后が厚子内親王に意思を確認したことは、国民に「本人たちの自由意思を尊重した」と受け止められた。東京と岡山は遠く、姉宮の和子内親王時ほど頻繁に会うことはできなかったが、二人は文通を交わした。また隆政は取材の直接的な質問に対して、厚子内親王のことを「エゝ、好きですね」と答え、厚子内親王も会うたびに「お互いの理解と愛情が深まる」と発言したと報じられた。 その後、6月末に正式に見合いの場が設けられて婚約が内定。仲人にあたったのは松平康昌。 同年5月17日に祖母・皇太后節子(貞明皇后)が崩御してから2か月足らずの時期であったが、実父である昭和天皇は、第1期の服喪期間の50日間が過ぎた7月10日、田島道治宮内庁長官に命じて順宮厚子内親王と池田隆政との婚約が内定した旨を公式に発表させた。なお、1947年(昭和22年)に廃止された皇室服喪令によれば、祖母である貞明皇后に対する皇女厚子内親王の服喪期間は150日であった(最長は昭和天皇などで1年間となる)。服喪期間中に、さらには皇族会議も経ず、昭和天皇自らの裁可による婚約発表は異例であった。 元華族とはいえ内親王の結婚相手が、首都から遠距離にある岡山県、しかも農場主というのは極めて異例なことであった。しかし「岡山(=地方定住)」「牧畜業」というキーワードにより、皇族・内親王と言う高貴な存在が、国民の身近に「降り」てきた象徴的な出来事として受け止められた。牧場主の妻となる覚悟について母后から問われた厚子内親王は、キッパリと「はい」と答えたという。 1952年(昭和27年)4月、厚子内親王は新居を確認するため2泊3日で岡山県を訪問した。この際、二人の仲睦まじく微笑ましい姿が盛んに撮影され、報じられた。この後、皇族全員の喪が明けた同年1952年(昭和27年)5月24日に納采の儀、9月16日に告期の儀が執り行われた。婚礼準備に際しても、姉宮同様、質素ぶりが強調されて報じられた。朝鮮戦争による好景気(朝鮮特需)によって国民生活も豊かになりつつあったが、それでもなお一般女性に比して豪奢であると批判もあり、皇室の民主化と再権威化の矛盾が表面化しはじめていた。 10月10日に隆政へ降嫁し、皇籍を離脱(臣籍降下)した。皇居前広場にはバスツアーの観光客をはじめ5000人が、高輪の光輪閣前には3000人が詰めかけて厚子内親王を祝福する熱狂ぶりであった。婚礼には、姉鷹司和子の時と同じく、天皇・皇后が揃って参列する予定であったが、父天皇は風邪のため出席を断念した。また、このとき皇后は初めて公の場で和服を着用し、慶事の話題に花を添えた。 夫妻は婚礼から5日後に寝台列車で岡山に向かったが、東京駅でも盛大な見送りがあり「もみくちゃにされた」と報じられた。岡山県では三木行治知事が厚子を特別扱いすべきではないと表明していたにも関わらず、岡山駅には1万人が集う熱狂的な奉迎が行われ、オープンカーによるパレードも車が立ち往生する混乱となった。あまりの熱狂ぶりに、10月下旬には隆政自身が、以後の招待を辞退する旨を記者会見を開いて表明した。
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