婚約と婚姻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/14 21:54 UTC 版)
「黄梅院 (北条氏政正室)」の記事における「婚約と婚姻」の解説
甲斐国の生まれ。天文20年(1551年)8月頃より、武田氏・後北条氏・今川氏の甲相駿三国同盟のために、武田氏と後北条氏との間で婚姻交渉が進められ、北条氏康の嫡男・西堂丸に嫁ぐことになった。ところが、元服して氏親と名乗った西堂丸は天文21年(1552年)3月に16歳の若さで急死してしまう。このため、武田氏と後北条氏の間の婚約は一旦白紙になってしまい、氏康は信玄に対して新しく後継者に決まった次男の松千代丸(後の氏政)との婚約を申し入れることになった。信玄もこの要望を受け入れて、天文22年(1553年)正月、氏康と信玄との間で婚約のやり直しに関する起請文を交わされている。松千代丸は天文23年(1554年)の正月頃に元服して氏政と名乗り、婚姻の環境が整うことになった。 天文23年(1554年)12月、氏政の元に嫁ぐことになり、その輿入れ行列は、一万人もの供の者が付き従い、大変豪華であったと伝えられている。また、信玄は彼女のために弘治3年(1557年)の11月には、安産の神である「富士御室浅間神社」に安産祈願をしており、子煩悩であったことが覗える。 弘治元年(1555年)に男子(名前不明、夭折)、弘治3年(1557年)末頃に芳桂院(千葉邦胤室)、永禄5年(1562年)に、嫡男・氏直、永禄9年(1566年)竜寿院を産むなど夫婦仲は良好であった。 なお、『平姓北条氏系図』では、太田氏房・千葉直重・北条直定も黄梅院の子とされているが、現在の研究では氏房の母は黄梅院以外の女性と推定され、直重・直定については黄梅院の没後に誕生したことが明らかになっているため、いずれも彼女の子ではないと考えられている。
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