婚約・御台所へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 16:09 UTC 版)
安永2年(1773年)6月18日に鹿児島城で誕生した。最初の名は篤姫、於篤といった。茂姫は誕生後、そのまま国許の薩摩にて養育されていたが、一橋治済の息子・豊千代(後の徳川家斉)と3歳のときに婚約し、薩摩から江戸に呼び寄せられた。その婚約の際に名を篤姫から茂姫に改めた。茂姫は婚約に伴い、芝三田の薩摩藩上屋敷から江戸城内の一橋邸に移り住み、「御縁女様」と称されて婚約者の豊千代と共に養育された。 10代将軍徳川家治の嫡男家基の急逝で豊千代が次期将軍と定められた際、この婚約が問題となった。将軍家の正室は五摂家か宮家の姫というのが慣例で、大名の娘、しかも外様大名の姫というのは全く前例がなかったからである。このとき、この婚約は重豪の義理の祖母に当たる浄岸院の遺言であると重豪は主張した。浄岸院は徳川綱吉・吉宗の養女であったため幕府側もこの主張を無視できず、このため婚儀は予定通り執り行われることとなった。茂姫と家斉の婚儀は婚約から13年後の寛政元年(1789年2月4日)である。 茂姫は天明元年(1781年)10月頃に、豊千代とその生母・於富と共に一橋邸から江戸城西の丸に入る。また、茂姫は家斉が将軍に就任する直前の天明7年(1787年)11月15日に島津家と縁続きであった近衛家および近衛経熙の養女となるために茂姫から寧姫と名を改め、経熙の娘として家斉に嫁ぐ際、名を再び改めて「近衛寔子(このえ ただこ)」として結婚することとなった。 重豪の正室・保姫は家斉の父・治済の妹であり、茂姫と家斉は義理のいとこ同士という関係であった。
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