婚約破棄を経た結婚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 06:13 UTC 版)
1941年(昭和16年)3月、ふみ子は文字通り青春を満喫した東京家政学院を卒業する。卒業式には母のきくゑが参列した。きくゑには卒業式参列の他にもう一つ、重要な目的があった。ふみ子への縁談である。卒業式後、紹介者と合流するためにいったん父の故郷、富山に立ち寄った後、紹介者とふみ子と母は旭川に向かい、そのままお見合いをする。 実のところふみ子は家政学院在学中から母のきくゑからしばしばお見合いを勧められていたが、その都度断っていた。見合いの相手は24歳の歯科医で、ふみ子の両親はこの縁談に乗り気であった。両親が歯科医の青年との縁談に乗り気であった理由としては、戦時体制が強まっていく中で両親の商売が上手く行かなくなってきたこと、若者が次々と出征していく戦時下の状況、そしてふみ子の言動を心配した等が考えられる。 見合いの相手はふみ子のタイプではなかった。結婚を自らの意志ではなく決められてしまうことも嫌であった。そして東京時代のボーイフレンド、樋口徹也への思いも断ち切れていなかった。結局、見合い相手の歯科医と婚約することになり、婚約者の優しさは認めたものの、ふみ子の心は満たされなかった。思い悩むふみ子には戦時体制が強化されつつあった状況も圧し掛かってくる。日本の現状と自分の考え方、生き方が合致していないのではないか……ふみ子は様々に思い悩みながらも、母に婚約解消を強く訴え続けた。怒った母はふみ子に布団蒸しの折檻も加えたというが、ついにふみ子は家出を決行する。この家出は函館駅付近で知人に見つけられ、連れ戻されたが最終的に婚約は解消されることになった。 帯広ではふみ子の婚約破棄は話題となった。親が選んだ恵まれた条件の青年との婚約を破棄したことは当時としては珍しい出来事であり、ふみ子と家族は周囲からの非難と好奇の目に晒されることになった。そのような中でふみ子は家業である商売を積極的に手伝ったり、得意であった料理つくりなど家事を手伝うなど懸命に働いた。この頃になると戦時体制がふみ子に大きく影響していくようになる。聖戦を称え、これまでの自分本位の生き方を反省し、自分をある程度殺して、従順かつ犠牲心を持った生き方をしていこうとしたのである。 このようなふみ子のもとに再度、お見合いの話が舞い込んできた。今度の相手は北海道帝国大学の工学部を卒業し、鉄道省の札幌出張所に勤めていた中城博であった。先に婚約破棄をした青年と比べて「財産は無く、意地っ張りで寛大でもない」が、「頭が良くきれいな」青年であった。戦時体制下、幸福になれる自信が無いとためらいを見せながらも、ふみ子は結婚を了承する。ふみ子の家族にとっても前回の婚約破棄の負い目もあった。ふみ子と中城博との結婚式は1942年(昭和17年)4月26日、札幌神社で行われた。
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