婚約破棄事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 16:48 UTC 版)
王妃決定までには『婚約破棄事件』と称される混乱があった。1917年(大正6年)、久邇宮邦彦王の子朝融王と酒井忠興の娘酒井菊子は婚約する。しかし、久邇宮家側が一方的に婚約解消を望み、宮内省をまきこむ騒動となる。菊子との婚約は既に勅許を得たものであり、また久邇宮家と言えば先の皇太子裕仁親王(のちの昭和天皇)と良子女王の婚約の際には婚約解消を断固拒否したばかりであった(これを宮中某重大事件という)。 久邇宮側の婚約破棄の理由は「菊子に節操にかんする疑いがある」とのことであったが、宮内省が噂の出どころを調査した結果、事実無根であることが解った。にもかかわらず朝融王と邦彦王は性格不一致を理由にともかく婚約破棄を強行する。だが天皇の裁可を覆すことは前例がなく、久邇家側の言い分があまりに一方的であったため、大きな問題となった。皇族の結婚は天皇の許可を得て行われることが通例で、たとえ皇族といえど覆すのは難しかった。正式な婚約ではなかったものの、勅許を得たものであり、そもそも先の宮中某重大事件とはこれがために無事婚約と至ったのである。宗秩寮総裁の徳川頼倫、宮内大臣の牧野伸顕らの説得にも関わらず、久邇宮邦彦王は婚約破棄の方針を貫く。 結局、1924年(大正13年)11月、宮内省は酒井家側から婚約辞退の申し出をさせることで事態を収拾させた。当時摂政であった裕仁親王(昭和天皇)は、邦彦王に訓戒の言葉を伝えている。 なお、前田家に嫁いだ菊子の長女美意子は、昭和天皇と香淳皇后の第一皇女照宮成子内親王(朝融王から見て姪にあたる)の学友として親交があった。 後年、小山いと子が実名小説『皇后さま』の中に、酒井美意子が『ある華族の昭和史』の中に菊子の側から、この事件を記している。
※この「婚約破棄事件」の解説は、「久邇宮朝融王」の解説の一部です。
「婚約破棄事件」を含む「久邇宮朝融王」の記事については、「久邇宮朝融王」の概要を参照ください。
- 婚約破棄事件のページへのリンク