近衛寔子とは? わかりやすく解説

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広大院

(近衛寔子 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/18 06:45 UTC 版)

広大院(こうだいいん、安永2年6月18日1773年8月6日〉- 天保15年11月10日1844年12月19日〉) は、江戸幕府の11代将軍・徳川家斉の正室(御台所[1]。実父は薩摩藩8代藩主・島津重豪、実母は側室・市田氏(お登勢の方〈慈光院〉)。市田氏は薩摩藩大坂蔵屋敷足軽から下級武士階級に昇進したとされるが異説もある。養父は近衛経熙[1]。実名は寧姫篤姫茂姫。後に天璋院が「篤姫」を名乗ったのは広大院にあやかったものである。弟に奥平昌高(実の生母は鈴木氏の娘)、姉に敬姫奥平昌男婚約者)がいる。


注釈

  1. ^ 明和6年(1769年)に一橋家出身の重豪正室・保姫、安永元年(1772年)に浄岸院が死去し、将軍家一橋家との縁が薄れることで再び御手伝い普請など財政の負担が増えることを恐れた島津家側からの働きによるという。当時の一橋家の家老は田沼意次の弟・田沼意誠で、一橋家を通じて幕閣に働きかけるのが主目的であったとされる[2]
  2. ^ 2代将軍秀忠の正室は戦国大名浅井長政の娘・お江与の方であるが、関白である豊臣秀吉の養女として輿入れしている。
  3. ^ その後であるが、姉小路は広大院付の上臈御年寄・梅渓に罪をなすり付けた。梅渓のその後は知られていない。また、この火事で広大院は中臈・こや(広大院付奥医師・桂川甫賢の娘)に老衰で寝たきりの御年寄・花町を助けだすよう命じ、こやは炎に包まれている大奥御殿に花町救出のために入っていった。しかし花町の部屋は炎に包まれており救出は不可能であったが、広大院の命令にてこやは背くことができなかった。鎮火後、花町の部屋付近から2人と思われる焼死体が奥女中らによって発見された。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k 芳賀ほか 1993, p. 431.
  2. ^ 『近世国家の支配構造』(雄山閣ISBN 4639005814「松平定信の入閣を巡る一橋治斉と御三家の提携」高澤憲治
  3. ^ 山本博文『大奥学事始め 女のネットワークと力』(NHK出版)ISBN 978-4-14-081273-0
  4. ^ 深沢秋男『旗本夫人が見た江戸のたそがれ』(文春新書)ISBN 978-4-16-660606-1
  5. ^ 山本博文『大奥学事始め 女のネットワークと力』
  6. ^ 関口すみ子『大江戸の姫さま』(角川選書)ISBN 4-04-703381-2、畑尚子『幕末の大奥』(岩波新書)ISBN 978-4-00-431109-6


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