婚約の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 22:17 UTC 版)
この強引な婚約の背景には当時の政治的な思わくがあった。当時の江戸城大奥では家継の父で先に薨去した前将軍徳川家宣の正室・天英院と側室で家継生母の月光院の二大勢力があった。一方京都では、吉子内親王の父である霊元法皇と天英院の実父・近衛基熙が主導権をめぐり争っていた。家宣亡き後、幼君を戴いて正徳の改革を推し進めざるをえない苦しい立場にあった当時の事実上の政権運営者、側用人の間部詮房や学者の新井白石は、この史上最年少の将軍(徳川家継)に権威付けをするために皇女の降嫁を計画しており、天英院に対抗する権威を朝廷に求めた月光院も賛成した。また、天英院も家宣存命中に姪の尚子(後の新中和門院)と家継の婚約を進めていたが、家継と尚子の年齢差を気にかけて婚約話を破談にしてしまった経緯があり(尚子は後に中御門天皇の女御となった)、正室を皇室から迎えることには前向きであった。一方、霊元法皇は長年幕府と対立関係にあったが、政敵である近衛基熙の権力基盤である幕府との関係に楔を打ち込むため、これに応じたのである。近衛基熈はこの婚約には反対であったが、天英院との関係からか表立った反対をせずに沈黙した。
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