女性社会政治同盟(WSPU)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 16:38 UTC 版)
「エメリン・パンクハースト」の記事における「女性社会政治同盟(WSPU)」の解説
1903年の時点で、パンクハーストは、国会議員が長年にわたって女性参政権について行ってきた穏健な演説や公約は何の進展ももたらさなかったと考えていた。1870年、1886年、1897年に参政権に関する法案が公約されていたが、それらはいずれも廃案になっていた。彼女は、多くの議題を持つ政党が女性参政権をとりわけ優先するだろうかと疑いを持っていた。さらに、独立労働党が「女性の投票権」を重視することを拒否し、彼女は独立労働党とも決別することとなった。既存の支持団体のとる持久戦術を捨て、より戦闘的な行動をとることが必要であると彼女は考えた。こうして1903年10月10日にパンクハーストは数人の仲間とともに女性社会政治同盟(WSPU)を設立した。この組織は女性だけに門戸を開き、投票権を獲得するための直接行動に焦点を合わせていた。 「言葉ではなく、行動が私たちの永遠のモットーである」と後に彼女は書いている。 この組織の初期の運動は非暴力的な形で行われた。演説や請願署名を集めることに加えて、WSPUは集会を組織し、「女性のための投票」というニュースレターを発行した。また、政府の公式会議に合わせて、キャクストンホールなどで「女性議会」の開催を続けた。1905年5月12日に女性参政権に関する法案の議事が妨害されると、パンクハーストと他のWSPUメンバーは国会議事堂の外で声を上げて抗議を開始した。しかし警察はすぐに、彼女たちが集まって法案の通過を要求していた場所から彼女たちを排除した。法案が復活することはなかったが、パンクハーストは、戦闘的なデモによって注目を集めることができた点は成功であると考えた 。パンクハーストは1906年に「私たちはついに政治的党派として認められました。私たちは今や、政治の中を泳ぎ周り、政治的な勢力になっているのです」と述べている。 まもなく彼女の3人の娘は全員WSPUで活動するようになった。1905年10月、自由党の集会中に警官に唾を吐きかけたクリスタベルが逮捕され、アデラとシルヴィアも1年後、議会の外で抗議をしている最中に逮捕された。 パンクハーストが初めて逮捕されたのは1908年2月のことで、首相H・H・アスキスに抗議決議を手渡すために議会に入ろうとした時のことだった。彼女は妨害行為で起訴され、6週間の禁固刑を言い渡された。害虫や粗末な食事、彼女や他の者が命じられた「独房収監と絶対的沈黙という文明的拷問」といった監獄の状況に対して彼女は抗議の声をあげた。パンクハーストは、投獄を女性参政権の緊急的必要性を宣伝するための手段と考えていた。1909年6月には確実に逮捕されるように彼女は警察官の顔を2度殴った。女性参政権が承認されるまでにパンクハーストは7回逮捕された。1908年10月21日に行われた裁判で、彼女はこう語っている。「私たちがここにいるのは法律を破る者だからではありません。法律を作る者になるための努力でここにいるのです」 WSPUが女性の投票にのみ焦点を絞っていたことは、その戦闘性のもう一つの特徴であった。他の組織が個々の政党と協力することに同意したのに対し、WSPUは、女性参政権を優先しない政党とは協力しないことを主張し、結果、多くの場合で敵対することになった。政府与党が女性参政権法案の通過を拒否したため、彼女たちは与党に属するすべての候補者に抗議した。特に与党だった自由党の候補者の多くは女性参政権を支持していたため、(言行不一致の)自由党の組織員たちとはすぐさま対立することになった(WSPUの初期の反対の標的となったのは、後に首相となるウィンストン・チャーチルであり、彼の反対者はチャーチルの敗北の一因を「時に笑いものにされている女性たち」とした)。 WSPUのメンバーは、自由党候補者の選挙を台無しにしたとして、罵声を浴びせられ、嘲笑されることもあった。1908年1月18日、パンクハーストと彼女の仲間のネリー・マーテルは、自由党支持の男性ばかりの群衆に襲われた。彼らは、保守党候補に直近の選挙で敗北したのはWSPUのせいであると考えていた。彼らは泥や腐った卵、石の入った雪玉を投げ、女性たちは殴られ、パンクハーストは足首にひどい打撲を負った。後に、同様の緊張関係が労働党でも形成された。しかし、党の指導者が女性の投票権を優先させるまで、WSPUはその戦闘的な活動を継続することを誓ったのだった。パンクハーストと他のメンバーたちは、政党政治が女性参政権という目標の妨げになっていると考え、他の組織が女性の投票権よりも党への忠誠心を優先していると批判した。 WSPUがその行動によって認知され、良くも悪くも有名になるにつれ、パンクハーストは組織自体を民主的に運営することに抵抗するようになった。1907年、テレサ・ビリントン・グレイグが率いる小さなグループは、組織の年次総会にもっと一般の参政権賛同者を参加させるよう求めはじめた。これに対してパンクハーストは、WSPUの会合で、組織規約の意思決定に関する項目は無効であると告げ、年次総会を中止した。また、出席メンバーから選ばれた小委員会がWSPUの活動を調整することを認めるよう主張した。そしてパンクハーストと娘のクリスタベルが(メイベル・トゥーク、エメリン・ペティック・ローレンスとともに)新しい委員会の委員に選ばれた。ビリントン・グレイグ、シャルロット・デスパードを含む数人のメンバーは失望し、組織を離脱して独自の組織である女性自由連盟(Women's Freedom League)を設立した。1914年の自伝の中で、パンクハーストはWSPUの指導体制に対する批判を否定している。 いつであろうとメンバー、またはメンバーの集団が、私たちの方針を信頼しなくなり、他の方針をとるべきだと提案し始めたり、他の方針を追加して問題を複雑にしようとすれば、彼女は直ちにメンバーでなくなるのです。独裁的? その通りです。参政権のための組織は民主的であるべきだと、あなたは反対するかもしれません。しかしWSPUのメンバーは、あなたの意見に同意しません。普通の参政権組織の有効性を信じていないのです。WSPUは、複雑な規則によって妨害されません。私たちには規約も法的制約もなく、年次総会で修正したり、いじくりまわしたり、言い争ったりするようなことは何もありません.WSPUはまさに戦場にある参政権の軍隊なのです。
※この「女性社会政治同盟(WSPU)」の解説は、「エメリン・パンクハースト」の解説の一部です。
「女性社会政治同盟(WSPU)」を含む「エメリン・パンクハースト」の記事については、「エメリン・パンクハースト」の概要を参照ください。
- 女性社会政治同盟のページへのリンク