大学院修了まで
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「ジルベルト・フレイレ」の記事における「大学院修了まで」の解説
ブラジル北東部(ノルデステ)ペルナンブーコ州の州都レシフェ市の、砂糖きび農園を経営する旧家に生まれた。農園主の一族としては金銭的に恵まれない生活を送っていたが、教師であり法律家であった父親アルフレッド・フレイレの元でエリート教育を受けて育った。1907年から1917年まで南部バプテスト連盟が設立したプロテスタント系のミッションスクール(現在のコレジオ・アメリカーノ・バティスタ)に通い、卒業に前後してバプテスト教会の信者となった。卒業後しばらくレシフェで布教活動を行い、1918年バプテスト教会の奨学金を得て、神学を学びにアメリカ合衆国テキサス州にある同じく南部バプテスト連盟が設立したベイラー大学へ留学した。 当時の多くのブラジルの知識人同様に進歩的かつ自由主義的な考え方を持っていた父親に影響され、アメリカの反ブルジョワ的なキリスト教に憧れを持っていたと、後にフレイレは語っている。しかし、アメリカで待ち受けていたのはクー・クラックス・クランの集団や、黒人へのリンチ殺人といった厳しい人種差別の現実であった。やがて米国のプロテスタントへの疑問を抱くようになり、さらに非洗礼者であった父親がバプテストの学校で教鞭をとることに教会が批判的であったこともあり、宣教師への道を諦めた。卒業論文のテーマは、テキサスのマイノリティの社会学的な調査だったが、大学に評価されることはなかった。ベイラー大学の在学中に、1825年に創刊されたラテンアメリカ最古の日刊紙『ディアリオ・デ・ペルナンブーコ』への寄稿を始め、ベイラー大学の英文学者ジョゼフ・アームストロングから高い評価を受けた。 1920年にベイラー大学を卒業し、同年秋、ニューヨークのコロンビア大学大学院に進学。政治学部で人類学者フランツ・ボアズに師事し、その門下で多大な影響を受けた。ポアズは文化相対主義を唱え、人間集団の格差を人種的・地理的な要因と文化的・環境的な要因に分けて考えた。1922年、19世紀におけるブラジルの奴隷とイギリスの労働者の生活を比較した修士論文『19世紀中葉ブラジルにおける社会生活』を提出し、修士号を得た。この論文は、米国のラテンアメリカ研究誌『ヒスパニック・アメリカン・ヒストリカル・レヴュー』に掲載された。
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大学院修了まで
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「ウィリアム・ルーサー・ピアース」の記事における「大学院修了まで」の解説
1933年、ジョージア州アトランタにてスコットランド=アイルランド系アメリカ人(英語版)・イングランド系アメリカ人の長老派教会の家系にて、父ウィリアム・ルーサー・ピアース・ジュニア(William Luther Pierce, Jr.)と母マルグリット・ファレル(Marguerite Farrell)の息子として生を受ける。1936年に生まれた弟サンダース(Sanders)は後に技師となり、ピアースの政治活動にも共感し支援を行っている。父は1892年生まれのバージニア州クリスチャンバーグ出身で、母は1910年生まれのジョージア州リッチランド(英語版)出身だった。また母の家系を辿ればオールドサウス系貴族でアラバマ州知事やアメリカ連合国司法長官を務めたトマス・ワッツがいる。南北戦争後、母の家系は労働者階級に没落したものの存続していた。父は外航貨物船の監督に携わる役人で、後には保険代理店のマネージャーに転職したが、1942年に交通事故で死亡している。父の死後、ピアースと母、弟の3人家族はアラバマ州モンゴメリーに引っ越し、その後さらにテキサス州ダラスへと移った。 学校でのピアースは優秀な生徒で、1学年を飛び級している。また高校最後の2年間はアレン軍学校(Allen Military Academy)で過ごしている。十代の頃のピアースは、モデルロケットの製作や化学、通信、電子関係の実験、そしてサイエンス・フィクションを読む事が趣味であったという。また、彼が最初に抱いた夢は宇宙飛行士になることだった。 1951年に軍学校を卒業すると、油田の雑役として一時的に働く。しかし金属パイプの落下事故で手を負傷したため退職し、靴のセールスマンの職を得る。その後、ライス大学に通うための奨学金を獲得。1955年にはライス大を卒業して物理の学士(B.A.)の学位を得る。卒業後の一時期はロスアラモス国立研究所で働き、その後カリフォルニア工科大学大学院に進学するがまもなくコロラド大学ボルダー校に移り、1962年には物理の博士号を修得している。1962年から1965年まで、オレゴン州立大学の助教授として物理学を教えた。
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