母の家系
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 10:08 UTC 版)
「ウィンストン・チャーチル」の記事における「母の家系」の解説
アメリカ人の母ジャネットは、1709年頃にイングランド・ワイト島から英領アメリカに移民した開拓者ティモシー・ジェロームの子孫である。ティモシーはコネチカット州ウォリングフォードで一財産を築いた。ティモシーの末子であるサミュエルはマサチューセッツ州ストックブリッジの地主として成功を収め、その息子アーロンはアメリカ合衆国初代大統領ジョージ・ワシントンの親戚の娘と結婚した。アーロンの息子にアイザックがおり、そのアイザックの息子がチャーチルの祖父にあたるレナード・ジェロームだった。 レナードは南北戦争後の復興事業で大きな成功を収め、銀行経営者、ウォール街の投機家、『ニューヨーク・タイムズ』の株主、サンフランシスコと横浜を繋ぐパシフィック・メール汽船会社(英語版)の所有者、競馬場経営者、馬主にもなった。彼はニューヨーク州議会議員を1年だけ務めたアンブローズ・ホールの娘クラリッサ・ホールと結婚した。ホール家の伝承によるとホール家にはインディアンのイロコイ族の血が流れているというが、正確なところは不明である。 レナードとクラリッサ夫妻は4人の娘を儲けた。そのうちの次女がチャーチルの母ジャネットであった。ジェローム一家はヨーロッパの上流階級より排他性の強いニューヨークの保守的な上流階級の間では、南北戦争によって莫大な資産を築いただけの田舎者の新興成金として軽く扱われただけでなく、他のニューヨークの新興成金同様に仲間入りすら拒絶され、ニューヨークの名家の御曹司との結婚は事実上不可能であった為、資金力さえあれば出自に関わらず誰でも歓迎していたパリに移住し、フランス皇帝ナポレオン3世から厚遇された。しかし金儲けと競馬とオペラ以外に興味がなく、更に上流階級というものに是非とも入りたいと思わなかったレナードはまもなくパリを離れたが、夫の財力を用いて超名門の貴族と自分の娘たちの縁組を夢見ていた、野心家で見栄っ張りのクラリッサと娘たちは、金さえ有れば外国人でも排除されず、上流階級の人間としてちやほやされるパリで暮らし続け、ジャネットもパリで育った。母子は普仏戦争で一時フランスを離れたものの、戦後パリに戻った。
※この「母の家系」の解説は、「ウィンストン・チャーチル」の解説の一部です。
「母の家系」を含む「ウィンストン・チャーチル」の記事については、「ウィンストン・チャーチル」の概要を参照ください。
- 母の家系のページへのリンク