母の後見下で統治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 09:35 UTC 版)
「テオバルド1世 (ナバラ王)」の記事における「母の後見下で統治」の解説
シャンパーニュ伯ティボー3世とナバラ王女ブランシュ(ブランカ、サンチョ6世の娘)の子として生まれる。生まれる前に父が他界したため、誕生とともに伯位を継承し、遺腹伯と呼ばれたが、21歳になるまでは母ブランシュが国を統治した。将来に不安を感じた母によりフランス王フィリップ2世が後見人になり、ティボー4世はフランス宮廷で育てられた。1209年と1213年に母とフィリップ2世との間で臣従儀礼(オマージュ)に関する約束と保証金支払いが2度交わされ(ティボー4世が21歳になるまで王への臣従は免除、ブランシュは保証金として1209年に1万5000リーブル、1213年に2万リーブル王に支払う)、1214年以降は母の後見の下シャンパーニュを治めた。 シャンパーニュ家ことブロワ家は十字軍と関係が深い家系で、祖父のアンリ1世は十字軍に参加して帰国後の1181年に死去、伯父のアンリ2世は第3回十字軍参加者の1人でエルサレム王となり(1192年 - 1197年)、父も第4回十字軍に参加する予定だったが急死した。家臣にも十字軍関係者がおり、第4回十字軍の参加者ジョフロワ・ド・ヴィルアルドゥアン、第5回十字軍の指揮官ジャン・ド・ブリエンヌ、第7回十字軍の参加者ジャン・ド・ジョアンヴィルはシャンパーニュ伯領の出身または家臣である。 だが当初は2人の従姉、すなわちエルサレムで事故死した伯父アンリ2世の遺児たち、次女フィリパ(英語版)とその夫ラメール公エラール1世(英語版)との家督争いに悩まされた。この抗争は1216年初頭からティボー4世が成人する1222年まで続き、当時のシャンパーニュ家に対する領主層の反乱や王家・カペー朝とホーエンシュタウフェン朝の神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世に対抗するヴェルフ家の対立関係も絡んでいた。ブランシュ・ティボー4世母子にはフィリップ2世とローマ教皇ホノリウス3世が味方していたため抗争を有利に進め、エラール夫妻は1221年にシャンパーニュに関する権利を放棄、ブランシュ母子はエラール夫妻から没収した領土を返還し年金を提供することで和睦、争いはようやく治まった。1234年にはフィリパの姉であるキプロス王ユーグ1世(英語版)妃アリス(英語版)にも領土と現金4万リーブルを提供して継承権を放棄させたが、この時現金が無かったため4万リーブルと引き換えにブロワ・シャルトル・サンセール・シャトーダンをフランス王ルイ9世(フィリップ2世の孫)に売却した。また、伯父や父の十字軍遠征によりシャンパーニュ家はすでに莫大な借金を抱えており、この点でも苦労することになった。
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