母の死と駆け落ち
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「デーヴィッド・ハーバート・ローレンス」の記事における「母の死と駆け落ち」の解説
1908年の秋、ローレンスはロンドンに移り住み、ロンドン南部クロイドン (Croydon) のデービットソン・ロードスクールで教鞭を取る傍ら、執筆を続けた。いくつかの詩はジェシー・チェインバーズに送られている。やがて彼の作品はThe English Reviewの編集者フォード・マドックス・ヘファー(後にフォード姓, (Ford Madox Ford) )の目に留まるようになった。ヘファーはローレンスに作品を依頼し、『菊の香り』 (Odour of Chrysanthemums) が執筆された。それがロンドンの出版社ハイネマン (Heinemann (book publisher)) の注目を引き、さらなる作品が作られることになった。ローレンスの収入は執筆の方が主となっていったが、その後も数年教職を続けている。 『白孔雀』 (The White Peacock) を脱稿して間もない1910年にルーイ・バロウズと婚約するが、その後すぐに母が病没。愛する母を失ったローレンスはその後数ヶ月立ち直れなかった。この出来事は彼の重要な転機となっており、その様子が後の1913年の小説『息子たちと恋人たち』 (Sons and Lovers) でも描写されている。1911年、出版会の大物エドワード・ガーネット (Edward Garnett) とその息子デービット (David Garnett) と親交を結んでいる。肺炎が再発し、翌1912年にルーイ・バロウズとの婚約を解消する。 1912年3月、ローレンスは就職相談で旧師アーネスト・ウィークリー (Ernest Weekley) を訪ね、彼の妻フリーダ (Frieda von Richthofen) と3人の子供と出会う。ローレンスはフリーダとミュンヘンへと駆け落ちする。そこでイギリスのスパイと疑われて逮捕、告発されたため、アルプス山脈を超えてイタリアにわたった。1913年には子供に会いたいと言うフリーダとともにイギリスに戻り、しばらく過ごしている。この際にジョン・ミドルトン・マリー、キャサリン・マンスフィールドらと知り合う。その後イタリアに戻り、ラ・スペツィアに住む。1914年、この地で『虹』 (The Rainbow) と『恋する女たち』 (Women in Love) を執筆する。フリーダは夫アーネストと離婚し、1914年6月13日にローレンスと再婚する。1915年9月に『虹』を出版するが、11月に猥褻だとして発禁処分を受ける。その後、コーンウォールに移る。1917年10月、スパイ容疑でコーンウォールから立ち退きを命じられ、バークシャーに移る。1918年にはダービーシャーに移る。1919年、イギリスを離れてイタリアに向かう。この頃には英文学作家として世間に広く知られるようになる。
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