母の死と継母
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明和2年8月17日(1765年10月1日)、一茶がわずか3歳の時に母、くにが亡くなった。母の死後、一茶の養育は健在であった祖母かなが主に担った。後年、母を亡くした一茶が孤独であった少年時代のことを追憶して作った俳句が 我と来て遊べや親のない雀 である。 くにの死後、父弥五兵衛はしばらくやもめ暮らしをしていたが、明和7年(1770年)、一茶8歳の年に近隣の倉井村(長野県飯綱町)から、後妻のはつが嫁いできた。はつは弥五兵衛との婚姻時は27歳で、勝ち気で働き者の女性であった。明和9年(1772年)には一茶の腹違いの弟となる仙六が生まれた。祖母にはかわいがられた一茶であったが、継母のはつとの関係は険悪であった。一茶の回想によればはつは性格がきつく、事あるごとに一茶に厳しく当たったという。それでも祖母のかなが健在であるうちは間に立ってくれたものの、一茶が14歳の安永5年8月14日(1776年9月26日)、かなは亡くなった。一茶を継母から守ってくれていた祖母の死は、一茶と継母との関係をますます悪化させた。また祖母の死にショックを受けた一茶は重い病気にかかり、一時は重体となった。一茶と継母との関係の極度の悪化を見た父弥五兵衛は、やむを得ず一茶を江戸へ奉公に出すことにした。 一茶が江戸へ奉公に出る前、柏原でどのくらいの教養を身に付けていたのかはかっきりとしない。一茶自身の回想によれば、少年時代の一茶は農繁期の昼は終日農作業や馬の世話などに追われ、夜は夜で藁打ちや草鞋作りをせねばならず、とても学ぶ余裕など無かったとしている。しかし一茶の故郷は雪深い北信濃であり、雪に降り込められる冬季には各地で寺子屋が開設されていた。子どもたちは主に冬季、寺子屋で読み書きを学んでいたのである。一茶が少年時代を過ごした18世紀後半になると、農村での生活の中でも読み書き能力の必要性が高まっていた。実際、一茶の父の弥五兵衛も異母弟の仙六も、きちんとした文章を書ける能力を身に付けていた。一茶も江戸奉公に出るまでには基礎的な読み書き能力は身に付けていたものと推察されている。
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