大会前の政治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 03:15 UTC 版)
「1880年共和党全国大会」の記事における「大会前の政治」の解説
1880年1月、各地で党員集会が開かれて代議員が決められた。州の大会では全国大会に送る州の代表となる代議員を選別した。大会前に、候補者による政治マシーンの操作がかなりの規模で行われた。ジョン・シャーマンは自分が指名した財務省の職員を使い、南部中の党員集会に出させて、支持してくれる代議員を確保することに務めさせた。ロスコー・コンクリングのような州単位での政治ボスは、特定候補者を政治的に支持する代議員を拾い上げるために州の大会を使った。ニューヨーク州ユーティカで開催された州代議員選別大会でグラントの支持者が217票で、ブレインの支持者180票を僅かに上回っただけだったが、コンクリングは次のような決議案を通させた。 「 ニューヨーク州共和党はユリシーズ・S・グラントを大統領候補として再選することを最重要課題と考え、本日集まった代議員はその候補指名を確保するために最大に熱心でまた統一された動きを行うために招集され指示される。 」 コンクリングはこの決議に従うよう代議員に指示し、それに違背した場合は政治的報復と個人的不名誉の犠牲になるであろうことを保証した。しかし、シカゴではニューヨーク州の多くの代議員が決議に逆らい公にブレイン支持を表明した。J・ドナルド・キャメロンはペンシルベニア州大会で同じような戦術を使って反対者にグラント支持を強要した。「トリアンビレイト」の第3の男ジョン・A・ローガンはイリノイ州大会会場から文字通りブレイン支持者を締め出し、自ら選んだグラント支持者に入れ替えた。 全国大会開会まであと4日となった5月29日までに、列車が着く毎に代議員、ロビー運動家、記者、選挙運動応援者たちがシカゴのユニオン駅やディアボーン駅に到着した。候補の支持者達は毎日のパレードや集会でシカゴの通りを狭くした。大会前に投票結果の予測が多くの情報源で出版されていた。その1つは「オルバニー・イブニング・ジャーナル」でありブレインが277票、グラントが317票、シャーマンが106票、その他の候補者で49票となっていた。これら予想は全て、指名に必要な379票に届かないものだった。シカゴにいた多くの者は、勝者、おそらくグラントが、特定の州の代議員は全て州の代議員団の選ぶ候補者に投票しなければならないということを前提とする統一ルールが守られて、初めて1人に絞られると分かっていた。そうならなければ、一方が他方に譲ることになるまで暗礁に乗り上げた状態が長く続くことになるはずだった。 投票を始める前に、代議員は統一ルールの重要な事項について票決で決めておく必要があった。大会を始める前にジェームズ・ガーフィールドが、「私は(統一ルールが)候補者の選択よりも重要なことだとみなした」と言っていた。このルールが代議員の過半数によって支持されれば、州の政党ボスは「トリアンビレイト」の各人と同様に、グラントの指名で固めることができるはずだった。コンクリングなどストールワートのボス達がこのやり方を実行した場合、「トリアンビレイト」の出身州代議員のうち60人近くが黙るしかなくなっていた。ハーフ・ブリード派にとって不運だったのはJ・ドナルド・キャメロンが共和党全国大会の議長だったことだった。キャメロンはこの大会で新しいルールを採用するために自分の権限を行使するつもりであり、統一ルールについて不満な者も抑えようとした。その作戦が漏れて、数日の内にシカゴの代議員のほとんどがそれを知るところとなった。シャーマンとブレインの支持者達は、キャメロンがその権限を行使することを防がなければならないことが分かった。ブレインの応援部隊はキャメロンを全国大会議長から外すことによってのみ、統一ルールの押し付けを防止できることで合意した。 5月31日午後7時、大会を始める前の最後のミーティングをJ・ドナルド・キャメロンが招集した。このミーティングに集まった56人の中でキャメロンの同朋は16人しかいなかった。残りは反グラントの代議員であり、団結してキャメロンを吊し上げることに決めていた。コロラド州の上院議員ジェローム・B・チャフィがこのミーティングで最初に統一ルールの問題を取り上げた。チャフィはウィリアム・E・チャンドラーが纏め上げた手書きの動議をキャメロンに手渡した。キャメロンはこれを予測しており、チャフィの動議に何らかの欠陥を見つける必要があった。キャメロンはチャフィーの動議を却下した。チャフィにその理由を問われたキャメロンは委員会が大会に暫定議長を指名できるだけであり、統一問題について票決をおこなうことはできないと説明した(これは規則委員会に属することだと言った)。キャメロンは続いてカリフォルニア州出身のストールワート派代議員であるジョージ・コーネリアス・ゴーラムを使い、アメリカ合衆国上院の秘書官であるゴーラムは議事手続きの専門家になっていたので、その判断を正当化させた。反グラント派の代議員は1人ずつ、キャメロンの動議に異議を唱えようとしたが失敗した。ゴーラムは委員会議長としてキャメロンが「適していると考えるところに従い」行動できると宣言した。コネチカット州の代議員でグラント政権ではアメリカ合衆国郵政長官を務めたマーシャル・ジュウェルが、キャメロンの裁定に声を大にして反対を唱え始めた。キャメロンはコメントせず、短い休憩を要求した。休憩後にウィリアム・E・チャンドラーからの動議で、中立派上院議員でマサチューセッツ州の代議員であるジョージ・フリスビー・ホアを、党大会の暫定議長に選ぶ動議を受け入れることに合意した。 委員会の票決は29票対17票で、ホアを大会暫定議長に選出した。その日の深夜に委員会は休会となり、委員たちは翌朝集会を継続することにした。キャメロンの行動に関する報せが夜の間に町中に広まった。その強硬路線が失敗しており、コンクリングなど他のグラント支持派は、事態が悪化するまえに支配力を戻そうとした。翌朝、コンクリンがその信頼する仲間のチェスター・A・アーサーに事態の解決を依頼した。アーサーは事態を評価して妥協案を考え付いた。委員会室入り口でチャンドラーなど反グラント派徒党と会見した。アーサーはグラント派の者達が前日に決まった大会暫定議長としてのホア上院議員を拒絶したことを認めたが、再考する余地があると言った。アーサーはその代議員達に、統一ルールについて自由投票で採決し、その見返りにドン・キャメロンを全国大会議長に戻すという提案を行った。数分間議論した後で二人は合意に達した。ブレイン派の指導者であるチャンドラーが取引を受け入れたので、アーサーは自信があり、「グラント派も合意するに違いない」と見ていた。その後チャンドラーは取引内容を30人の反グラント派委員と議論し、また以前に統一ルールについて反対を表明していたジェームズ・ガーフィールドとも話をした。反グラント派30人のうち23人がその条件に同意し、ガーフィールドは、その条件が「和解の精神で受け入れられなければならない」とコメントした。 委員会は6月1日午後に再招集され、J・ドナルド・キャメロンが委員会議長の席に座った。アーサーは多くの動議を提出し、ニューヨーク州とペンシルベニア州のグラント派は大会暫定議長としてホア上院議員の指名を支持すると表明した。誰も反対せず、その動議が認められた。集会は流会となった。「ニューヨーク・トリビューン」の記者は後に、グラント支持者が「アーサー将軍の優れた管理で全的な壊滅を免れた」と言っていた。
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