州の政党
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/16 05:29 UTC 版)
「第一政党制 (アメリカ合衆国)」の記事における「州の政党」の解説
連邦政府が決める外交政策、国有地の販売、および大統領が統制する任命権の重要さの故に、諸州の政治派閥も連邦党と共和党という対立構造の枠組みの中に組み込まれていった。例えばトマス・リッチーのような新聞編集者は強力な政治家になった。リッチーの新聞「リッチモンド・ジャントー」は1808年から1840年代に入るまでバージニア州の政界を支配した。 ニューイングランドは常に連邦党の強い地盤だった。ある歴史家はコネチカット州で連邦党が如何にうまく組織化されていたかを次のように説明している。 党の中核となる役人の組織体制を動かす方法を完全にしておくことだけが必要だった。州の役人と補佐官、および州議会の過半数があった。各郡には保安官とその副官が居た。州、郡、町の判事の全ては、活動的な作業者の可能性があり、概してそうだった。全ての町には数人の治安判事や学校長が居り、連邦党の町では町の役人全てが連邦党のために働く準備ができていた。...民兵士官、州検察官、弁護士、教授、教員が、この「徴兵軍隊」の先頭にいた。全体として、1,000人ないし1,100人の役人は、常に選挙の結果を左右できる支配票とそれ以上の票を確保することができる内側の環として表現された。これが連邦党のマシーンだった。 連邦党に力があったので、共和党はこれに打ち勝つために懸命に動かなければならなかった。1806年、州の指導層は町の指導者に近付く選挙に関する指示を与えた。全ての町のマネジャーは州の指導者から、「町の各地区あるいは部分に地区マネジャーを指名し、それぞれからその任務を忠実に果たす保証を得ておくこと」と告げられた。続いて町のマネジャーは、納税者や有権者をリスト化し、その数を数え、「共和党支持」「連邦党指示」「疑いあり」の人数を求め、最後に現在は有権者ではないが、年齢や納税によって次の選挙で有権者となりうる支持者の数を数えておくよう支持された。その結果は州のマネジャーに知らされ、動きの鈍い町には全ての有権者を町の集会に動員し、若者の有権者登録を援助し、地方選挙には定数を満たすだけの候補者を指名し、党の候補者名を印刷し配付するような指示が行った。無記名投票の習慣は当時なく、それが採用されたのは1世紀も後のことだった。この高度に調整された「集票」手段は近代の選挙運動ではよくある話だが、当時は世界史の中で初めて登場した性質のものだった。 コネチカット州では宗教的な緊張関係が二極化しており、連邦党に肩入れする会衆派教会はその権力掌握を維持しようと努めていた。これに不満な集団がジェファーソン派の支持に動いた。1814年のハートフォード会議の失敗が連邦党の評判を傷つけ、1817年には民主共和党に完全に敗北した。
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