北陸合同電気への参加
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1939年の日本発送電設立に帰結する1930年代後半の電力国家管理への流れの中、全国的に小規模事業者の統合が盛んになった。高岡電灯でも逓信省の指導もあって1938年10月1日に能登半島の鳳至電気より事業を譲り受け、約6,000灯の電灯供給と若干の電力供給を引き継いだ。同社は1924年1月に設立、同年8月に開業。供給区域は鳳至郡のうち8村で、高岡電灯の供給区域に東西を挟まれていた。この統合に際して、関係会社の大岩電気を供給区域の地理的関係より日本海電気へと統合させた。大岩電気は中新川郡上市町の事業者で、1926年に高岡電灯の傘下に入っていた。次いで1939年(昭和14年)11月1日には二俣水力電気より事業を譲り受けた。同社は石川県河北郡浅川村(現・金沢市)で1923年4月に開業した小事業者である。事業統合以外にも、1938年7月に高岡電灯は出町電灯の全株式を買収した。同社は高岡市の南方、東礪波郡出町(現・砺波市)の小事業者で、買収時は1万灯余りの電灯と若干の電力供給を行っていた。 1939年4月1日に全国の事業者から主要電力設備の現物出資を受けて国策電力会社日本発送電が設立されたが、この段階では高岡電灯を含む北陸地方を本拠とする電力会社で、日本発送電へと設備を出資した事業者は存在していない。また日本発送電は設立当初、主要水力発電所の発生電力を買い入れ、これを電気事業者に対し供給する、というのが主たる業務であったが、高岡電灯とは送受電の関係は生じていない。なお1939年末時点での発受電は、自社水力発電が8か所・総出力1万1,185キロワット、受電が日本電力・立山水力電気・日本海電気・金沢電気軌道・金沢市営電気の5事業者より計2万1,740キロワット(融通電力を計算に含まず)であった。 1940年(昭和15年)になると、日本発送電の体制強化と配電事業の統合・国家統制を目指す動きが生じる(第2次電力国家管理)。この動きに対して、日本海電気を率いる山田昌作は自主統合と事業合理化を急ぎ進める方針を打ち出し、高岡電灯社長の菅野伝右衛門に話を持ち込んだ。菅野は高岡電灯社内の意見不一致から統合に消極的であったが、山田や日本海電気から移ってきた支配人西泰蔵の熱心な説得により統合に前向きとなったという。高岡電灯が合同参加意思を示したことで名古屋逓信局も北陸3県の事業統合を慫慂するに至る。1940年末より合同に向けた準備が始まり、翌1941年(昭和16年)3月10日には合併契約調印へと進んだ。 合同に参加する電力会社は日本海電気・高岡電灯・金沢電気軌道・小松電気・大聖寺川水電・越前電気の6社に出町電灯・手取川水力電気・石川電気を含む各社の関係会社6社をあわせた合計12社。これは福井県の大部分に供給する京都電灯を含まないが、北陸3県の主たる民間事業者を網羅する。1941年3月29日、高岡電灯は臨時株主総会にて合併を議決。そして同年8月1日に12社合同が成立、新会社北陸合同電気株式会社が発足した。この新設合併に伴い高岡電灯を含む旧会社12社は解散している。高岡電灯で社長を務めた菅野伝右衛門は新会社の会長に転じた。 北陸合同電気成立直後の1941年8月末、第2次電力国家管理の一環として国策配電会社による配電統合を盛り込む配電統制令が施行された。配電統制に際し、初めは全国を8ブロックに分割して地域別に配電事業を統合する案が優勢で、北陸3県は東海地方とあわせた中部ブロックに含まれる予定であった。ところが北陸合同電気で社長となる山田昌作は北陸3県の独立運動を強力に展開し、新会社発足直後に北陸3県を東海地方と別ブロックとすることを認めさせた。そして9月、北陸合同電気・京都電灯・日本電力と市営供給事業を営む金沢市に対して国策配電会社「北陸配電」の設立命令が出され、翌1942年(昭和17年)4月1日に富山・石川両県と福井県の若狭地方を除く地域を配電区域とする北陸配電が設立をみた。
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北陸合同電気への参加
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福井県における大手電気事業者である京都電灯は、1920年代に福井電力・大正電気・南越電気という県内の小規模事業者3社の株式を買収して傘下に収めていたが、逓信省の事業者整理の方針に従って1940年(昭和15年)4月にこの3社より事業を譲り受けた。京都電灯はさらに福井県内の事業統合を進めるべく傘下ではない越前電気の合併も推し進め、同年7月、合併契約を締結した。しかし名古屋逓信局の反対があり、半年後の12月1日付で合併契約は解消された。 この京都電灯の動きとは別に、日本海電気(富山県)の主唱により北陸地方の電気事業を自主統合しようという動きが当時進行中であった。名古屋逓信局もこの再編を推奨しており、その結果、日本海電気・高岡電灯・金沢電気軌道・小松電気・大聖寺川水電・越前電気の6社に各社の関係会社6社をあわせた合計12社の合併が取り決められた。1941年(昭和16年)3月10日に合併契約調印、3月29日株主総会にて合併・解散決議と手続きは進められ、8月1日新会社北陸合同電気株式会社発足に至った。この新設合併に伴い越前電気を含む旧会社12社は解散した。
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