北陸合同電気から北陸配電へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 15:26 UTC 版)
「日本海電気」の記事における「北陸合同電気から北陸配電へ」の解説
1939年4月1日に全国の事業者から主要電力設備の現物出資を受けて国策電力会社日本発送電が設立されたが、この段階では日本海電気を含む北陸地方を本拠とする電力会社で、日本発送電へと設備を出資した事業者は存在していない。また日本発送電は設立当初、主要水力発電所の発生電力を買い入れ、これを電気事業者に対し供給する、というのが主たる業務であったが、日本海電気とは送受電の関係は生じていない。 1940年(昭和15年)になると、日本発送電の体制強化と配電事業の統合・国家統制を目指す動きが生じる(第2次電力国家管理)。この動きに対して、日本海電気を率いる山田昌作は自主統合と事業合理化を急ぎ進める方針を打ち出し、高岡電灯社長の菅野伝右衛門に話を持ち込んだ。菅野は高岡電灯社内の意見不一致から統合に消極的であったが、山田や日本海電気から移ってきた支配人西泰蔵の熱心な説得により統合に前向きとなったという。高岡電灯が合同参加意思を示したことで名古屋逓信局も北陸3県の事業統合を慫慂するに至る。1940年末より合同に向けた準備が始まり、翌1941年(昭和16年)3月10日には合併契約調印へと進んだ。 合同に参加する電力会社は日本海電気・高岡電灯・金沢電気軌道・小松電気・大聖寺川水電・越前電気の6社に立山水力電気を含む各社の関係会社6社をあわせた合計12社。これは福井県の大部分に供給する京都電灯を含まないが、北陸3県の主たる民間事業者を網羅する。そして同年8月1日に12社合同が成立、新会社北陸合同電気株式会社が発足した。この新設合併に伴い日本海電気を含む旧会社12社は解散している。日本海電気では1939年12月の増資で資本金を5000万円としており、合併時の払込資本金額は3687万5000円であったが、これは統合12社中で最大である。新会社との株式交換比率は1対1になるように調整された。 北陸合同電気成立直後の1941年8月末、第2次電力国家管理の一環として国策配電会社による配電統合を盛り込む配電統制令が施行された。配電統制に際し、初めは全国を8ブロックに分割して地域別に配電事業を統合する案が優勢で、北陸3県は東海地方とあわせた中部ブロックに含まれる予定であった。ところが北陸合同電気でも社長を務める山田昌作は北陸3県の独立運動を強力に展開し、新会社発足直後に北陸3県を東海地方と別ブロックとすることを認めさせた。そして9月、北陸合同電気・京都電灯・日本電力と市営供給事業を営む金沢市に対して国策配電会社「北陸配電」の設立命令が出され、翌1942年(昭和17年)4月1日に富山・石川両県と福井県の若狭地方を除く地域を配電区域とする北陸配電が設立をみた。
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