北陸三ヶ国120万石の太守
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 09:11 UTC 版)
「前田利長」の記事における「北陸三ヶ国120万石の太守」の解説
関ヶ原の戦い後、弟・利政の能登の七尾城22万5,000石と西加賀の小松領12万石と大聖寺領6万3,000石(加賀西部の能美郡・江沼郡・石川郡松任)が加領され、加賀・越中・能登の3ヶ国にまたがる日本最大の藩・加賀藩が成立した。利長は1反を300歩に改め領内の再検地と丹羽・山口遺臣の蜂起に備え刀狩りを実施、122万5千石の検地高を得たが幕府は認めず、119万2760石を前田家の朱印高とした。 利長は、関ヶ原の戦いで敗れて薩摩国へ逃れていた宇喜多秀家の助命を家康に嘆願し、実現したと言われているが、実際に動いたのは母の芳春院であって、利長が助命に動いたことを示す史料は存在しない。利長は前田家領国を守ることを何よりも最優先にして利政・秀家の切り捨てを図り、その結果として120万石にも及ぶ大封を得たのが実像であったとみられている。
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