分子の実在の検証
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/12 02:45 UTC 版)
「アボガドロの法則」の記事における「分子の実在の検証」の解説
アボガドロの仮説は認められたものの、そこに現れる分子というものが本当に粒子として実在するのか、それとも単に説明に都合のよい概念に過ぎないのかは不明なままであった。これは原子の実在性と合わせて19世紀末から20世紀初頭にかけての物理と化学における大きな論争となった。 分子を物理学の法則に従う粒子として扱った研究はアボガドロの仮説が認められるよりも早い時期から存在した。ルネ・デカルトやアイザック・ニュートンは万物が粒子からなるという粒子論(英語版)の立場をとり、あらゆる物理的な性質を粒子の運動から説明しようと考えていた。1727年にはレオンハルト・オイラーが気体の状態方程式を気体粒子の運動から求める試みを行なっていた。しかしまだ粒子の速度分布などが考慮に入っておらず、この試みは失敗する。当時の未成熟な物理の理論を化学に適用することは成功せず、そのような試みはその後一世紀近くの間下火となる。 1843年にジョン・ジェームス・ウォーターストン(英語版)はエネルギー均分の定理を提案し、圧力と気体の分子の平均速度の関係式や、温度が分子の平均速度の2乗に比例することを導出している。しかし、この論文は1891年にレイリーが発見するまで埋もれていた。圧力と平均速度の関係は1853年にウィリアム・トムソンによって、エネルギーの均分の定理は1859年にジェームズ・クラーク・マクスウェルによってそれぞれ独立に提案されることになる。クラウジウスは1857年から翌年にかけて気体分子をある形を持った粒子として扱い、回転運動などを考慮した比熱理論を発表した。1859年にマクスウェルは気体分子の速度分布則やエネルギー均分の定理などを含む理論を提唱し状態方程式を導出した。1865年にこの結果を元にヨハン・ロシュミットは1cm3あたりの分子数であるロシュミット数を求めることに成功した。 このような成果はあったものの、多くの科学者が原子や分子の実在に懐疑的な立場をとるようになる。これには熱力学の確立が大きく影響している。1842年にはユリウス・ロベルト・フォン・マイヤーがエネルギー保存則を提唱した。1843年にはジェームズ・プレスコット・ジュールの実験により熱がエネルギーの一種であることが確実となり、熱素説が完全に否定された。また1850年にはクラウジウスが熱力学第二法則を提案した。この熱力学第二法則が問題であった。気体分子運動論はニュートン力学を基礎にしている。ニュートン力学による運動は可逆であるため、気体分子運動論は熱力学の第二法則を説明できないことになってしまった。また分子説には気体の性質以外の分野では、ほとんど何も有用な知見を導けていないという限界があった。一方で熱力学は気体の性質以外に溶液や化学反応にも適用でき、多くの有用な知見を導いていた。 そこで熱の本性がエネルギーであったのと同様に、原子や分子も本性はエネルギーであると考える科学者たちが多くなった。このエネルギー論の立場をとったのはヴィルヘルム・オストヴァルトやエルンスト・マッハらである。一方ルートヴィッヒ・ボルツマンは原子、分子の存在を主張し、彼らの間で激しい論争となった。 1872年にボルツマンはボルツマン方程式とH定理を提案し、これにより熱力学の第二法則を説明できるとした。しかし1876年にロシュミットから、それがニュートン力学の可逆性と矛盾しているのではないかという批判を受ける。ボルツマンはそれを受けて1877年にエントロピーと確率の関係であるボルツマンの原理を示し、H定理に反するのは確率的にありえないようなわずかな場合に限ると主張した。また1896年にエルンスト・ツェルメロは、ボルツマンの考えた系ではアンリ・ポアンカレの再帰定理により有限時間のちに同じ状態が再現されるため、H定理は成り立たないと主張した。これに対しボルツマンは再帰に要する時間は非現実的な長さの時間であり考慮する必要はないと主張した。しかし、これらの反論もオストヴァルトやマッハを納得させるには至らず、ボルツマンは1906年に自殺してしまう。 1900年にはマックス・プランクが黒体放射の放射公式を発表した。この式の中にはボルツマン定数が含まれているため、黒体放射から間接的にアボガドロ定数を検証できる。このことは1905年にアルベルト・アインシュタインによって指摘された。 最終的に原子と分子の実在性について決着を付けたのはアインシュタインとジャン・ペランであった。アインシュタインは1905年にコロイドの濃度と粘性率の変化についての論文を博士論文として提出した。またさらにブラウン運動をコロイド粒子に分子が多数ランダムに衝突することによるゆらぎの過程として記述する理論を提唱した。これらの理論により、液体の性質からアボガドロ定数を算出する方法が新たに導かれた。1908年にペランはこの新しい理論を詳細に検証し、アボガドロ定数を測定する実験を行なった。それらの結果は従来の求められていた値とほぼ同じものであった。こうしてやっと実際に分子が実在することがオストヴァルトらにも認められ、アボガドロの仮説は、法則として認められることになったのである。
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