内容の分析
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/08/17 08:17 UTC 版)
「海の彼方に (X-ファイルのエピソード)」の記事における「内容の分析」の解説
本エピソード放送時には既に、『X-ファイル』の主人公の立ち位置は定まっていた。モルダーは超常現象肯定派で、スカリーが懐疑主義者だった。その構図を初めて逆転させたのが本エピソードであった。父親ウィリアムの死で気が弱くなっていたスカリーはボッグスの霊能力を信じてしまった。その一方でモルダーはボッグスの霊能力を疑い、彼の能力を論理的に否定しようとした。 こうなった理由に関してはいくつかの説がある。ジャン・デルサラは「スカリーがボッグスの霊能力を信じようとしたのは、ボッグスの中に自分と同じものがあると感じたからだ。つまり、スカリーとボッグスは家族の高い期待が子供にとって重圧になり得ることを知っていたのだ。スカリーは父親に自分を誇りに思ってほしいと強く願っていた。それにも拘らず、スカリーは父親の期待を裏切り、医者ではなくFBI捜査官の道を歩んだ。ボッグスは自分の家族を殺したとき、家族の命ではなく家族が自分に向けた期待を殺そうとしたのである。一方、スカリーとは対照的に、モルダーと彼の両親の関係は期待ではなく、サマンサを守ることができなかったという一種の失望でもあり憤りでもある感情に基づいている。それ故にモルダーはボッグスに共感しようとはしなかったのである。」と述べている。 スカリーが自分の本能に従って事件を解決したのに対し、懐疑に陥ったモルダーは捜査中に銃撃されて入院する羽目になった。これに関してジョー・バロンは「物語が進むにつれて、スカリーはモルダーのようになってしまう。」と述べている。ディーン・コワルスキーは「モルダーとスカリーの立ち位置が反転したのは、シリーズが進むにしたがって、モルダーとスカリーの距離感が縮まっためである」と述べている。 スカリーは強い父性を持った男性に惹かれつつも、それに抵抗感を感じる女性である。シーズン4第13話「タトゥー」では、スカリーが長らく父親に憧れていたことが判明する。こうしたスカリーが抱える父性への相反する感情はシリーズ全体を通して主題になっていく。 父親像というテーマはモルダーとスカリーの双方から問われていくテーマでもある。実の父親だけではなく、保護者的な役割を果たすキャラクターが『X-ファイル』シリーズには出てくる(ディープ・スロート、シガレット・スモーキング・マン、リチャード・マティソン上院議員など)。本エピソードは主人公2人の父親観、母親観を問う最初のエピソードになっている。スカリーとその父親ウィリアムの関係はモルダーとその父ウィリアムの関係と鏡映しになっている(つまり正反対になっている)。 スカリー捜査官と『羊たちの沈黙』に出てくるクラリス・スターリング捜査官はよく比較して論じられる。ロンダ・ウィルコックスとJ・P・ウィリアムズはスカリーとクラリスの容姿が似ているだけではなく、男社会で働いている点においてもよく似ていると指摘している。2人は本エピソードにおけるスカリーとクラリスが特に似ていると指摘する。2人は「スカリーは父親と感情的に結びついている一方で、自らを父親に認めてもらおうとしていた。父親の死後、スカリーにとって自分が父親にとって自慢の娘であったかという問題が切実な問題になってきた。 また実際に霊能力は本物であったわけだが、スカリーは霊能力の存在を全否定して終わる。この点は非常に感じの悪い終わり方であるが、同時に今まで霊能力の存在を全否定していたモルダーが「なぜ父親の言葉を聞きに行かなかったのか?」と今までの彼では考えられないような発言をする。これはモルダーが信じ、スカリーが疑うという本来のXファイルに戻ったことを意味しているものと思われる。
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内容の分析
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/10 09:37 UTC 版)
「呪文 (X-ファイルのエピソード)」の記事における「内容の分析」の解説
ロバート・シャーマンとラース・パーソンはその著書『Wanting to Believe: A Critical Guide to The X-Files, Millennium & The Lone Gunmen』において、本エピソードが既成宗教、特に上辺だけの信仰者に対するパロディになっているという仮説を提示している。2人は「「呪文」に登場する信仰者はステレオタイプなキリスト教徒ではなく、悪魔崇拝者である。」と指摘しつつも、本エピソードにおける主なジョークが「宗教的信仰が水に流され、口だけの信心に転化し、その儀礼と教義が心地よいものに再解釈されるさまを突いている。」と述べている。また、2人はパドック(不信心者を自ら裁いた)とパウロ(不信心者を非難したが、自ら裁きを下すことはなかった)と対比的に論じている。 『A.V.クラブ』のトッド・ヴァンデルワーフは扉のモチーフが本エピソードに頻出していることを指摘し、「ドアを開けるということは別の世界と繋がることであり、古代の悪魔を現代に引き入れることにもなり得る。」と述べている。
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内容の分析
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/22 15:44 UTC 版)
本エピソードは身振りにおける原題の性への不安を表象し、性的な誘惑でエイリアンによるアブダクションを比喩的に表現しているとの指摘がある。キース・ブッカーは「キンドレッドの構成員が性別を変化させるのは、ジェンダー・ロールの変化に伴う現代の性に対する不安を表象したものである。また、こうした不安は性的な交わりに対する生来の恐怖とも結びついている。」と述べている。アントニオ・ゴンザレスは「「性を曲げるもの」は性的な誘惑とエイリアンによるアブダクションという概念の両方を探求したものである。その2つは性的な攻撃衝動の一部である。」「マーティは性行為と生殖に対する恐怖を象徴したキャラクターである。」と述べている。 キンドレッドの構成員が他者の身体に触れると、触れられた人間が構成員の虜になってしまうという現象は構成員の性的な抑圧によるものだという指摘がある。エイリアンが他者に触れる際に何らかの力を発揮するというのは、SFの伝統的描写でもある(1983年の映画『E.T.』、1989年の映画『コミュニオン/遭遇』やロバート・A・ハインラインの小説『人形つかい』がその例として挙げられる)。
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