先行する作品群
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愛の挫折を味わった福永は、来嶋が存命であった当時から、一高内の新聞や会報に、この経験を作品化して次々と載せ始めることとなる。 最初に1935年(昭和10年)9月27日、福永は寮新聞『向陵時報』に原稿用紙7枚少しの短篇「ひととせ」を「水城哲男」の筆名で発表。内容は全能の語り手が、二人の学生が話しながら歩いている場面を俯瞰して見せるというもので、片方の学生は年下の学生に振られ、もう一人の学生ともう一度友達になりたいと思っているが、相手は「こんな我儘な奴はちつと苦労するがいい」と思っている、というものだった。更に、1ヶ月後の10月21日には「眼の叛逆」を発表。これは女性が「私」の一人称で語るもので、「私」が愛する年下の少年の眼に、かつて愛して裏切った男と同様の「叛逆」を見出し、「私は我儘だつた」と自省する内容だった。 連続して発表されたこの2篇は、いずれも年少の者を愛し破れていくという内容の作品であり、『向陵時報』の編集者も編集後記で「君としては更に他の方面に題材を求めて貰いたい様な気がする」と指摘している。しかし福永は筆名を「水城哲男」から「水上愁己」に変えるのみで、1936年(昭和11年)2月1日には、再び同じ題材を扱った「絶望心理」を『向陵時報』へ発表している。「俺」は自らの愛した年少の少年のために悪魔に魂を売るが、やはりその愛を受け入れてはもらえず、最後には悪魔さえもいない孤独の世界へ迷い込んでしまう、という内容であった。 『向陵時報』にこれら3篇を発表してのちの1936年(昭和11年)6月、福永は弓術部会報の『反求会会報』に詩「ひそかなるひとへのおもひ」を発表するのとほぼ同時に、『校友会雑誌』に本名で「かにかくに」を発表している。これは原稿用紙90枚弱の中編小説で、登場人物の氷田晋が藤木忍と知り合うが次第に藤木の心は氷田から離れていき、共に伊豆へ旅行へ行ってぎこちない時を過ごした末に、氷田は服毒自殺を遂げるという筋であった。 田口耕平は、これらの作品群のうち「ひととせ」を除く全てで、主人公らは自らの愛を表現するために「死」を持ち出していることに着目し、「いずれも押しつけがましく、一方的な愛の形しか見えてこない」「上から教え込む、矯正するような愛し方を主人公はしようとするのである。そして、この愛し方を拒絶されるや一気に「死」の方向へと進んでいく。これは果たして愛なのか?」と疑問を呈した上で、当時の福永がこれを愛と思っていたことは間違いない、としている。 また福永が『草の花』の原型として挙げているのは後述の「慰霊歌」のみであり、これらの先行する作品群に関する言及はない。
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先行する作品群
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/28 15:54 UTC 版)
『水滸伝』の骨格となる招安(第III部分)・四寇征伐(第V・VI部分)以外の、分量的には最も多い各好漢の銘々伝(第2部分の中心)のエピソード群については主として宋代以来、都市部で流行した講談によって生み出されたと推測されている。中鉢雅量は本文と関連作品の内容の分析から、1)まず太行山系を舞台とする北方系の盗賊説話が多く存在し、2)梁山泊を舞台とする南方系の説話と結びつき、3)最終的に杭州近辺の編者によって物語がまとめられ成立したと推測している。
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