全通後の経営から売却まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/01 13:53 UTC 版)
「紀和鉄道」の記事における「全通後の経営から売却まで」の解説
全線開通後は、旅客については当初予想よりほぼ2倍の収入を得たが、貨物については予想の半分にも達しない収入であった。沿線の住民は他所との往来の少ない農民がほとんどを占め、大きな旅客需要としては春と秋に関東や名古屋・京都・大阪などからの高野山への参詣客があったが、高野山参詣客は橋本駅か高野口駅で乗降するため全線の3分の1ほどしか利用しなかった。長距離の輸送を行うのが利益につながると考え、南海鉄道開通後は南海難波駅と五条駅を結ぶ直通急行列車の運転を行った。朝夕2往復(1往復は二見発着)で紀和鉄道線内は全駅停車の便もあり所要時間は4時間22分から4時間41分であった。。 貨物輸送は、吉野郡の木材、吉野郡および伊都郡の高野豆腐、伊都郡および那賀郡のみかん・穀物などの出荷、高野豆腐用の大豆、みかん用の肥料、日用雑貨などの入荷が大半であった。木材は紀ノ川の流送と競合し、鉄道輸送は積込・積卸と前後の輸送に費用がかかるため不利で、割引運賃の設定により製材された木材の輸送を獲得できた程度であった。 会社の経営はかなり苦しいものとなった。1903年(明治36年)7月7・8日には水害により全線が大きな損害を受け、仮の復旧作業を行って運転を再開するために1万6000円余りの復旧費と25日を要した。しかし本復旧にはさらに2万9000円を要し、今後の被害再発を防ぐための改良工事を行うには6万9000円、その他の鉄道法規に基づく改良には2万9000円、仮設していた駅の構造物を改築するには5万円あまりと、多額を要することが明らかとなった。様々な検討を行ったが、今後物価が高騰せず水害もないという条件でも、普通株に対する配当は長ければ8 - 9年は行えないと見積もられた。さらに公共交通機関としての役割を果たすためには、小さな会社は合併すべきであるとの考えが広まったこともあり、今後の損失を避けるためにも適当な価格で他社に鉄道を売却すべきであるという方向になった。 当初売却の相手として選んだのは南海鉄道であった。1903年(明治36年)10月28日に南海鉄道社長松本重太郎と紀和鉄道社長片岡直温の間で売却の仮契約が結ばれた。鉄道および附属物件を109万3540円で南海鉄道へ売却するというもので、このうち19万3540円は現金で、90万円は利率6パーセントの南海鉄道の社債で払うことになっていた。この仮契約は当初、南海鉄道の株主総会での承認は容易であろうが、紀和鉄道の株主総会では紛糾すると予想されていた。しかし実際には、紀和鉄道の側では10月30日の臨時総会で早速承認されたのに対し、南海鉄道の側の承認が難航することになった。 南海鉄道の株主の中には紀和鉄道の買収価格が高すぎるとして買収に反対するものが現れた。11月19日の南海鉄道の臨時総会および12月10日の継続総会において、仮契約にある社債での支払いについて、利率を5.5パーセントに変更するべきとの意見となり、社長名で紀和鉄道側に通知が行われた。これに対して紀和側では紛糾し、南海と再交渉を求めるもの、関西鉄道に売却すべきというもの、外資を導入してでも独立経営を続けようとするものなど、さまざまな意見が現れた。紀和鉄道と南海鉄道は、翌1904年(明治37年)2月25日まで交渉を続けたが、結局妥結しなかった。この間関西鉄道に対して打診したところ、南海鉄道より好条件で買収するとの返答を得たため、南海鉄道に対して売却拒否の通知を行うとともに2月25日付で関西鉄道との間で売却の仮契約を結んだ。その条件は南海鉄道に対する仮契約と同一条件に加えて、引き渡しが遅れた場合は営業委託を行いそれ以降の現金および社債に対する利子を支払い、貯蔵されている物品を時価で購入し、営業委託期間中に損失が発生した場合は関西鉄道が負担する、という紀和鉄道にとってより有利なものとなった。これに対して南海鉄道は2月26日に、元の仮契約の条件で買収を行うと申し入れてきたものの、紀和鉄道側はこれを断った。南海鉄道はさらに契約履行を求めて3月9日に和歌山地方裁判所に提訴および譲渡禁止の仮処分申請を行った。しかしこれは4月13日に原告敗訴の判決となった。 3月22日の紀和鉄道の臨時株主総会において関西鉄道との仮契約が承認され、財産処分案についても承認を受けた。関西鉄道の側でも3月22日の総会において、一部の株主に反対するものもあったものの賛成多数で買収案が承認された。5月13日の営業委託に関する契約書に基づき、5月16日に逓信大臣による営業委託承認を受けて、5月17日より関西鉄道に対して紀和鉄道の営業が全面的に委託された。関西鉄道側では、紀和鉄道線を自社の路線として運輸営業する申請を当局に対して行い、8月25日付で免許された。これを紀和鉄道側に通知して8月27日から正式に関西鉄道の路線として営業することになり、紀和鉄道では8月27日付で解散となった。 以降、取締役は全員が清算人となり、会社の財産を整理し貸借関係を解消し、残りを株主に分配する清算作業を行った。9月12日に会社財産の状況を調査して報告書を作成し、9月29日の臨時株主総会で承認を得た。さらに清算作業を進め、翌1905年(明治38年)5月2日の臨時株主総会において清算報告を行って、清算が完了した。紀和鉄道は優先株を発行していたので、優先株と普通株の間で財産の分配に差を付けるかどうか、どの程度の差をつけるかが大きな問題となったが、結局清算人に一任することになり、最終的な決定額は優先株1株につき関西鉄道社債29円37銭5厘、普通株1株につき関西鉄道社債8円61銭となった。
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