ヴァンフォーレ甲府社長として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/23 20:53 UTC 版)
「海野一幸」の記事における「ヴァンフォーレ甲府社長として」の解説
ヴァンフォーレ甲府は1965年に甲府クラブとして設立。その後1999年に創設されたJリーグ ディビジョン2(J2)に参入したもののスポンサー収入および入場者収入が伸び悩み、2000年シーズン終了後に1億1280万円の債務超過(資本金が3億3500万円に対し累積赤字が4億4780万円)に陥る。大企業がバックについているチームは赤字を補填することができるが、ヴァンフォーレ甲府にはそのような大企業スポンサーが存在しないことから不可能であった。また、今後も債務超過が改善される見込みがないことから、山梨県等の自治体は支援を打ち切り、出資元の山日YBSグループも解散または身売りを前提とした清算を行おうとしていた。その清算のために新社長として選任されたのが海野である。海野は筆頭株主の山日YBSグループ社長である野口英一からこの辞令を受けた時事実上の左遷と思い、「私をクビにしたいのなら、クビと言ってください」と喰らいつき、山日YBSグループの顧問弁護士に対しても愚痴を重ねるなど当初は激しく抵抗した。しかしチームの存続に奔走していた山梨県庁の平嶋彰英総務部長から「山日グループから甲府に社長を送り込んでほしい」 と念を押されていた野口も内心では存続ができればそれを望んでおり、「これができるのは(記者としても営業としても実績のある)海野しかいない」とし、海野も「とにかくやるべきことをやるしかない」と考えを改め、「私のやり方でやらせていただきます」と清算の為の就任ではなく、クラブを再建することを目指しての就任を選ぶ。こうして海野によるヴァンフォーレ甲府の再建が始まった。 就任直後、第1回の経営委員会が開かれ、粘り強い交渉の結果2001年は継続が決定。しかし2002年以降については2001年度の経営目標として「平均観客動員数3000人以上」(2000年実績:1850人)、「クラブサポーター数5000人以上」(同:2698人)、「スポンサー収入 5000万円以上」(同:2600万円)を提示され、これらが達成されなければ2001年終了後に解散という条件を突きつけられる。 海野はまず経費の削減による利益の増加を行なおうとしたが、経営危機のときから既にこれ以上削減できる状態ではないことがわかり(裏紙を何度も使用していた等)、これを断念。かわりに山日グループの広告代理店アドブレーン社の前取締役という人脈を生かしスポンサー収益の増加にとりかかる。しかし潰れかかったクラブに出資しようとする企業はなかなか現れなかった。そこで海野は交渉の際「スポンサーになれば税金対策になりますよ」 等とスポンサーになった場合のメリットを強調。更にスポンサー代による収益だけでなくユニフォームのクリーニングを無償で行なってくれる所や選手寮の清掃を無償で行なってくれる所も募集。その結果、県内企業のはくばく等がユニフォームスポンサーとして名乗りを上げ、またクリーニングなどを無償で行なってくれる企業も現れ、スポンサー収入については目処がつくことになる。 続いてクラブサポーターと平均観客動員の増加に着手。選手を地域のイベントやボランティア活動に積極的に参加させて交流を図り、また各自治体や企業を回り抽選会の景品を提供してくれることを要請。これに快く応じてくれるところが現れ、ホームゲームにおいてサンクスデーと称して毎試合、抽選会を実施し試合観戦以外でも観客を楽しませることに尽くした。また、いきつけの居酒屋などを回りクラブサポーターになってくれることを頼むなどした結果、これらの目標も達成された。同時にJ参入以来初めての単年度黒字も成し遂げ、ヴァンフォーレ甲府は2002年以降も存続することとなった。 ヴァンフォーレ甲府の2002年度以降の存続が決定したものの、依然として経営は苦しい状態であった。そこで海野は他のチームに比べピッチ看板の掲出の値段を安く抑えて数を増やす、薄利多売の作戦に出た。掲出企業の数を増やすためピッチ看板だけでなく横断幕の掲出、更に走り幅跳びの砂場にも広告用シートを張り、極めつきは怪我人を運ぶための担架の裏にまで整形外科医院の広告を掲出。試合の際山梨県小瀬スポーツ公園陸上競技場は看板で埋め尽くされ、サポーターの間では、海野はピッチ看板の鬼と称されている。 海野が社長に就任して以来、広告料収入およびクラブサポーター数、平均観客動員数は小瀬競技場改修工事によるキャパシティ減など特殊な例を除き、殆どのシーズンで目標を達成している。また、就任後はすべての年度において単年度黒字であり、Jリーグ ディビジョン1(J1)昇格初年度の2006年には債務超過を解消し、2011年現在は約9,000万円と経営危機時と比較し5分の1に減少した。また、2005年には年間予算6億7000万円でのJ1昇格を達成し、2007年の降格まで2シーズン、J1の座を維持した。この再建手腕が評価され、海野は2004年7月にJリーグの監事、次いで2006年7月には理事に選任され、Jリーグ加盟クラブの経営危機問題に関与する事になった。2012年に退任したが、2016年7月から新たに設立された「クラブ経営アドバイザー」に選任されている。 海野はヴァンフォーレ甲府の社長、会長は経て現在(2021年)最高顧問。一般社団法人ヴァンフォーレスポーツクラブ代表理事。2012年から山梨県サッカー協会副会長。2016年から日本サッカー協会アドバイザリーボード。 また、2007年から東京農業大学客員教授、2011年から同大学評議員を務めている。
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