ムード歌謡・演歌歌手として
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「増位山太志郎」の記事における「ムード歌謡・演歌歌手として」の解説
師匠でもある実父からは「相撲ばかりやっていては幅が出てこないし、色々な芸を経験して一芸に幅や奥行きが生まれる。何でもいいから大相撲以外で懸命にやってみろ」とアドバイスされた事を受け、現役力士時代の頃からムード歌謡・演歌歌手としても活動、レコードを多数リリースしている。1972年(昭和47年)に「いろは恋唄」で歌手デビュー。その2年後の1974年(昭和49年)に発売した海老名香葉子(初代林家三平の妻)作詞の3枚目のシングル「そんな夕子にほれました」が120万枚を超える売上を記録し初ヒットとなる。1977年(昭和52年)8月に発売した「そんな女のひとりごと」は実に130万枚を超える売上を記録して、1978年(昭和53年)に行なわれた「第11回日本有線大賞」では同曲で有線音楽賞とベストヒット賞を獲得した。 リリースしたアルバムの中には、師匠・実父と共に吹き込んだ相撲甚句のレコードもあった。力士が出場する歌番組では審査員も務めたこともある。テイチクレコードに所属してオリジナル曲をはじめ、当時流行のデュエット曲をテイチク所属の女性歌手と組んで多く発表した。現役引退・部屋継承後も歌手活動をしばらく継続し、一時期徳間ジャパンコミュニケーションズに移籍していたが、2009年(平成21年)に再びテイチクに移籍。 本人は現役時代当時、印税のために歌手活動を行っていたわけではないとし、周囲が「増位山は相撲を取らないで歌ばかり歌っている」と勘違いすることに対しては釈然としなかったという。 1985年(昭和60年)から日本相撲協会が親方、力士のレコード発売やCM出演等の副業を原則的に禁止したため歌手活動は行っていなかったが、協会は旧譜の再発売については認めていた。その後、CM出演の再解禁などの副業規制の緩和後に、懐メロ番組に出演したことがある。2007年(平成19年)10月、ともに横綱審議委員会の委員を務める内館牧子作詞、船村徹作曲の「水玉のスカーフ」で歌手として再デビューした。ちなみにカップリング曲は、かつて力士時代にヒット曲を出した経験がある横綱・北の富士とのデュエット「女房に捧ぐ」である。しかし、時津風部屋力士暴行死事件を受け公開レコーディングは中止となった。 さらに2008年(平成20年)2月にはNHK福祉大相撲に出演予定であったが、直前に元時津風親方と現役力士3人が逮捕されたことを受け出演を辞退した。2008年6月、NHK・BS2で放送された『シリーズ 昭和の歌人たち「中山大三郎〜“人生いろいろ”から“珍島物語”〜」』に特別ゲストとして登場、生バンドをバックにかつてのヒット曲「男の背中」をテレビで久々に熱唱した。 2003年(平成15年)頃より通信カラオケシステムDAMの機種改良に伴い、同機種で配信する「そんな夕子にほれました」を初めとする代表曲で背景映像に増位山本人が出演する映像が多く採用されている。「そんな夕子にほれました」では、背景画面に駅での出会いと別れをイメージしたドラマ風なアレンジの中を増位山本人が登場する。 2009年10月27日及び2012年10月11日、『NHK歌謡コンサート』(NHK総合)に出演。2012年6月21日には『木曜8時のコンサート〜名曲!にっぽんの歌〜』(テレビ東京)に出演。 上述の通り2013年11月場所で日本相撲協会を定年退職。同年12月4日、現役時代のしこ名である「増位山太志郎」の名義で、新曲「夕子のお店」の発表会を開催。「これからは歌一本。大相撲では大関止まりでしたが、今後は歌手で横綱を目指します」と改めて歌手として再出発の決意をコメントする。この曲および次作の「冬子のブルース」で、翌2014年12月30日放映の「第56回日本レコード大賞」において企画賞を受賞した。 甘く囁くような歌声が持ち味。ラジオ番組『コサキンDEワァオ!』(TBSラジオ)では「小スケベ声」と呼ばれ、よくネタにされた。 鳩レースも趣味としており、同じくレース鳩の飼育で知られる演歌歌手の同業・新沼謙治と意気投合している(ただし新沼は現在鳩を飼っていない)。2021年8月の報道によるとサックスを趣味としており、1日に4時間から5時間演奏している。
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