ホランドの以前の素行と空軍幹部の対応
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「1994年のフェアチャイルド空軍基地でのB-52機の墜落事故」の記事における「ホランドの以前の素行と空軍幹部の対応」の解説
事故調査委員会は、事故発生に多大なる影響を与えたバド・ホランドの人柄について指摘していた。アメリカ空軍の人事部は、ホランドにはしばしば飛行安全やその他の規則を破る勇猛果敢なパイロットであるという評判が流布していたことを証言した。この規則破りには最低安全高度以下での飛行、制限角度を越えたバンクの実施、制限上昇率以上での上昇といったものが含まれていた。 以前の事件は、1991年にホランドが娘の出場するソフトボールの試合会場上空をB-52で飛行するというものであった。最初高度2,500 feet (760 m) AGLでホランドは機体を65°のバンクに入れ、円を描いた。ある目撃者は、この機動の間に機首は下がり続け、バンク角度は80°にまで増加した飛行のことを「死の螺旋」("death spiral")と評した。1,000 feet (300 m)の高度を失ったところでホランドは機体の制御を取り戻すことができた。 1991年5月19日にフェアチャイルド空軍基地で開催された航空ショーでホランドは、展示飛行を行うB-52機の機長であった。ホランドの操縦する機体は、バンク角やピッチ角の限界を越えた飛行、航空ショーの観客の頭上の飛行、おそらく高度制限違反といった幾つかの安全規則違反を犯した。基地と航空団の司令官であるアーン・ワインマン大佐(Arne Weinman)がスタッフと共にこの展示飛行を見ていたが何の対処もとらなかったらしい。 1991年7月12日にフェアチャイルド空軍基地での第325爆撃飛行隊の指揮官交代式典中の「フライオーバー」をホランド操縦のB-52が行った。練習と本番のフライオーバーの双方でホランドの機は規定の最低高度を優に下回る高度100 feet (30 m)以下を飛行し、45°を越える急なバンク旋回を行い、ピッチ角度の制限を越えてウイングオーバーまでやってのけた。ウイングオーバーは明確に禁止されている機動ではないが、機体に負担をかけるので推奨されてはいなかった。このフライオーバーを見た後ワインマン大佐と作戦副指揮官であるジュリック大佐(Julich)はホランドに口頭で警告したが正式な処分はしなかった。 1992年5月17日のフェアチャイルド空軍基地の航空ショーでホランドは、再び展示飛行を行うB-52機の機長を務めた。展示飛行の最中にホランドの機は再び数度の低空での45°を越える急なバンク旋回、60°を越えると思われる機首上げでの急上昇後にウイングオーバー機動で〆るといった幾つかの安全規則違反を犯した。新しい航空団司令のMichael G. Ruotsala大佐は何の対処もしなかったらしい。1週間後に新しい副作戦指揮官(deputy commander for operations:DO)のCapotosti大佐は自身の判断でホランドに対しもしこれ以上の安全規則違反を犯すのであれば地上に降ろす(飛行資格を取り消す)と警告を申し渡した。しかし、大佐はホランドに対する警告を文書には残さず、正式な処分らしきものは課さなかった。 ホランドは、1993年4月14日と15日に太平洋のグアム近郊の爆撃演習場で行われた訓練に参加する2機編隊(2機のB-52)の編隊指揮官であった。この任務の間にホランドは自機を規則で定められた距離以上に僚機に接近させて飛行した。また航法士に爆弾倉から爆弾が投下される模様を機内からビデオ撮影するように依頼して再度規則違反を犯した。ホランドの航法士はこのビデオをフェアチャイルド空軍基地の3人の幹部に提出した。1人目の現在第325爆撃飛行隊の指揮官を務めるブロック中佐(Bullock)はこれに何の対処もせず、このビデオをブラックメールの材料として使い、航法士に航空団の作戦予定管理職への異動を受け入れさせようとさえしたらしい。2人目の副作戦飛行群指揮官(deputy operations group commander)ハーパー中佐(Harper)は航法士にこの証拠品を隠ぺいするように申し渡した。3人目の副作戦指揮官のこのビデオの報告を受けた時の第一声は「分かった。俺はこのビデオについては何も知りたくない。俺の知ったことか。」("Okay, I don't want to know anything about that video—I don't care.")というものだったらしい。 1993年8月8日のフェアチャイルド空軍基地の航空ショーで、ホランドはまたも展示飛行を行うB-52機の機長であった。展示飛行の演目には再度45°を越える急なバンク旋回、低空航過、今度は80°を越える機首上げ姿勢での急上昇といったものが含まれていた。この上昇は主翼燃料タンクのベント穴から燃料が吹き出すほどに急なものだった。新しい航空団司令のジェームズ・M・リチャーズ准将(James M. Richards)と新しい副作戦指揮官ウィリアム・E・ペルラン大佐(William E. Pellerin)は2人ともこの展示飛行を見ていたが、どちらも何の行動も起こさなかった。 1994年3月10日、訓練用の軍需物資をヤキマ爆撃演習場に投下する模様を承認を受けたカメラマンが、記録映像におさめるためにホランドが単機の訓練飛行の機長を務めた。この区域の最低飛行高度は500 feet (150 m) AGLであったが、この飛行中、ホランドの機がある稜線の約30 feet (10 m)上を航過する姿が撮影された。身の危険を感じた撮影班は撮影を中止し、ホランド機が再度地表すれすれを航過してきたときに避難したが、この時の稜線と機体の開きは僅か3 feet (1 m)程であったと推測されている。ホランド機の副操縦士は、機体が稜線に突っ込まないように操縦桿を抑えており(機長と副操縦士の操縦桿は連動している)、その間に残り2名の搭乗員はホランドに向かって繰り返し「上昇!上昇!」と叫んでいた、と証言した。ホランドは笑いながら搭乗員の1人を「女々しい奴」("a pussy")と呼んでこれに応じた。 飛行に同乗した搭乗員達は、以後2度とホランドと共に飛行はしないことを決意し、このインシデントを爆撃飛行隊上層部に報告した。飛行隊指揮官のマクギーハン中佐はこれをペルランに報告し、ホランドを飛行任務から外すように勧めた。ペルランはホランドと面談して口頭で叱責するとともに、このような行為を繰り返さないように警告したが、ホランドを飛行任務から外すことは拒否した。ペルランはこの問題について記録することも上層部への報告もしなかったため、上層部はこの件を知らないままであった。その後マクギーハンは部下の搭乗員を守るために以後の飛行でホランドが機長を務める場合は自身が副操縦士として同乗することに決めた。この事件の後でホランドとマクギーハンの間には、「少なからぬ敵対心」("considerable animosity")があったと示唆する証拠が残されている。 1994年のフェアチャイルド空軍基地の航空ショーを準備している時にホランドが再び展示飛行を行うB-52機の機長に任命された。1994年6月15日にホランドは新しい航空団長ウィリアム・ブルックス大佐(William Brooks)に計画している展示飛行の内容について説明を行った。ホランドの説明による展示飛行の演目には大バンク角旋回、低空航過、急角度上昇を含む数々の規則違反が混ざっていた。ブルックス大佐は、ホランドに展示飛行中は45°以上のバンク角、25°以上の機首上げを行わないように命じた。6月17日の最初のリハーサルでホランドは繰り返しこれらの命令に対する違反を犯したが、これを見ていたブルックス大佐は何の処置もとらなかった。ペルランはこの飛行でホランド機に同乗したが、ブルックス大佐に「演目はホランドにぴったりだ。非常に安全なようだし、安全係数以内に十分おさまっている。」("the profile looks good to him; looks very safe, well within parameters.")と報告した。次の6月24日の練習飛行は墜落で幕を閉じた。
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