ブラック・ミンストレル・ショーとは? わかりやすく解説

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ブラック・ミンストレル・ショー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 17:20 UTC 版)

ブラックフェイス」の記事における「ブラック・ミンストレル・ショー」の解説

ミンストレル・ショー」も参照 1840年まで、黒人パフォーマーブラックフェイス舞台化粧出演していた。フレデリック・ダグラスブラックフェイス嫌悪しブラックフェイスミンストレル対し反対意見述べた最初の1人とされ、人種差別非難したダグラスは「どのような形であれ有色人種白人観客前に登場させれば金になる」と語った1860年代黒人ミンストレル・ショー出演するうになると、「正真正銘」、「本物」と宣伝されることがあった。これらの「カラード・ミンストレル」は、解放されまもない奴隷人々から常々批判受けていた。ただしこの宣伝には悪意もあり、白人観客熟練パフォーマーではなく動物園のような見世物小屋のつもりで見に来ていた。低予算小規模劇場が多いにも関わらず客受け白人ミンストレル劇団対等であった1886年3月全米でもっとも人気があったとされるブッカー&クレイトン・ジョージア・ミンストレルズは批評家からの称賛得た。 これらのカラード・ミンストレルは、北部黒人社会的主張とは違いプランテーションなどをネタにし、「ジョージア・ミンストレルズ」と呼ばれていた。打楽器用いて本物ブラック・ミュージック演奏しポリリズム取り入れた伝統的なダンスをし、それ以外楽器使用せず手足使って体を叩いたり足を踏み鳴らしてリズム取り黒人パフォーマーの方が優勢であった黒人ミンストレルでもっとも成功したものの1つは、サム・ヘイグのスレイヴ・トループ・オブ・ジョージア・ミンストレルズ(奴隷劇団、の意)で、チャールズ・ヒックスが管理していたが、最終的にチャールズ・カレンダーに引き継いだ。ジョージア・ミンストレルズは全米および海外ツアー公演し、のちにハヴァリー・カラード・ミンストレルズとなった1870年代中期白人のブラックフェイス・ミンストレルはより豪華になり、黒人によるミンストレル逆に黒人文化から遠ざかっていった。フィスク・ジュビリー・シンガーズなどのジュビリー・シンガーズの流行により、霊歌などの黒人音楽白人宗教音楽とすることに北部白人興味示した複数のジュビリー・シンガーズは疑似ミンストレルとして売り込んでミンストレルの曲も演奏し逆にブラックフェイスミンストレル聖歌演奏し始めその後南部黒人宗教音楽手を広げたフィスク・ジュビリー・シンガーズによりブラックフェイス一線を画すため、また宗教音楽であることを強調するために使用され始めたジュビリー」という単語数年のうちに黒人文化において「ブランテーション」以上の意味を持つようになった。ジュビリー・シンガーズは白人市場に向け南部黒人宗教音楽洗練させ、一方ブラックフェイスはより異国風の見かけ誇張したアフリカ系アメリカ人のブラックフェイス・プロダクションも自己風刺による道化コメディ含んでいた。アフリカ系アメリカ人舞台に立ち始めた頃、黒人肌の色濃淡関わらずブラックフェイス施していた。1860年代一時的に有色人種劇団はこの慣習破りコメディ志向の「コルクで栓をするように」抑圧されていたが、他のパフォーマーたちはその色調多様性コメンテイターたちを驚かせた。この頃もまだブラックフェイスステレオタイプ演じられていた。 黒人パフォーマーたちはアフリカ系アメリカ人コミュニティスターとなっていたが、アフリカ系アメリカ人の上階級からは無視あるいは非難されていた。1882年中流階級のジェイムズ・モンロー・トロッターは「最低なカリカチュア」として軽蔑しつつ、黒人ミンストレル非難する人も彼らのパフォーミング見ればその「高い音楽文化」と感嘆し態度軟化する語った白人観客違い黒人観客カリカチュアとして捉えており、約50年後にマムズ・マブリーが登場するまで自分たちの文化を見るのを楽しんでいた。 差別的ステレオタイプ増強されてきたにも関わらず、ブラックフェイス・ミンストレルは実務的で、黒人多く就いていた単純労働比べて生活に困らないほどの利益を得ることができた。人種差別時代アフリカ系アメリカ人ミュージシャン俳優ダンサーによって黒塗りでの舞台出演自分才能披露するほぼ唯一の機会であったミンストレル・ショー南部以外で上演され人種差別微妙にからかい白人社会奴隷制度廃止論推進ダブルスタンダードとなっている。白人黒人関わらずブラックフェイスパフォーマンスにおいてブラックミュージックユーモアダンス豊かさアメリカ外国白人観客最初に受けていった。ブラックフェイス・ミンストレルがアメリカショー・ビジネスにおけるアフリカ系アメリカ人にとっての登竜門となった黒人パフォーマーブラックフェイスパフォーマンス白人対する皮肉として利用していた。性的駄洒落披露されることもあり、白人道徳主義者から嫌悪された。ヴォードヴィル侮辱的な演目には微妙なメッセージ込められていることもある。 ヴォードヴィル人気上昇に伴いバハマ生まれ俳優およびコメディアンのバート・ウィリアムズはフローレンツ・ジーグフェルド・ジュニア唯一のアフリカ系アメリカ人スターとなり、ジーグフェルド最高額給料獲得した1909年劇場所有者出演契約協会(TOBA)は、全員黒人によるヴォードヴィル巡業公演組織しブラックフェイス人気公演となったパフォーマーらは給料低く、「タフ・オン・ブラック・アクター」(TOBA厳しい状況黒人俳優)略してトビー」と呼ばれていた。TOBAはティム・ムーアやジョニー・ハギンスなどを主役にし、パフォーマー少なかったがとても良い生活を送れるようにし、TOBA他所比べてより魅力的な仕事堅調与えていた。白人黒人関わらずブラックフェイスは何百人ものアーティストエンタテイナー多くがのちに他の公演仕事を見つけるための突破口となった例えばヘイヴァリー・ヨーロピアン・ミンス トレルの最も有名なスター1人はのちに「グランド・オールド・マン・オブ・ザ・ニグロ・ステージ」として知られるうになるサム・ルーカスであった1914年ルーカスハリエット・ビーチャー・ストウ原作映画アンクル・トムの小屋』で主演した1930年代初頭から1940年代終盤ニューヨークハーレムにある著名なアポロ・シアター全米黒人地位向上協会(NAACP)からの抗議関わらず、ほぼ全ての黒人パフォーマーブラックフェイス施し、唇を大きく白で塗りスケッチ・コメディ行なっていた。このコメディの中で、彼らはそのメイクなければ裸のように感じると語った:4, 1983 ed.。 ミンストレル・ショー当初白人よるものから黒人パフォーマーよるもの移行していった。黒人たちはその様式を用いて自分のものにしていった黒人劇場からプロパフォーマンスができていった黒人によるミンストレルには白人たちにはないバイタリティユーモア持ち合わせていたという意見もある。 黒人ミンストレルパフォーマー自身をからかうだけでなく、根底では白人からかっていた。ケークウォーク白人パフォーマーの間では黒人ダンス風刺したのであるが、黒人ミンストレルでは白人生活習慣風刺したのである

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