ブラック・ミンストレル・ショー
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「ブラックフェイス」の記事における「ブラック・ミンストレル・ショー」の解説
「ミンストレル・ショー」も参照 1840年まで、黒人パフォーマーもブラックフェイスの舞台化粧で出演していた。フレデリック・ダグラスはブラックフェイスを嫌悪し、ブラックフェイスのミンストレルに対し反対意見を述べた最初の1人とされ、人種差別と非難した。ダグラスは「どのような形であれ有色人種を白人の観客の前に登場させれば金になる」と語った。 1860年代、黒人がミンストレル・ショーに出演するようになると、「正真正銘」、「本物」と宣伝されることがあった。これらの「カラード・ミンストレル」は、解放されてまもない元奴隷の人々から常々批判を受けていた。ただしこの宣伝には悪意もあり、白人の観客は熟練のパフォーマーではなく動物園のような見世物小屋のつもりで見に来ていた。低予算、小規模劇場が多いにも関わらず、客受けは白人ミンストレル劇団と対等であった。1886年3月、全米でもっとも人気があったとされるブッカー&クレイトン・ジョージア・ミンストレルズは批評家からの称賛も得た。 これらのカラード・ミンストレルは、北部の黒人の社会的主張とは違い、プランテーションなどをネタにし、「ジョージア・ミンストレルズ」と呼ばれていた。打楽器を用いて本物のブラック・ミュージックを演奏し、ポリリズムを取り入れた伝統的なダンスをし、それ以外の楽器を使用せず手足を使って体を叩いたり足を踏み鳴らしてリズムを取り、黒人のパフォーマーの方が優勢であった。黒人のミンストレルでもっとも成功したものの1つは、サム・ヘイグのスレイヴ・トループ・オブ・ジョージア・ミンストレルズ(奴隷劇団、の意)で、チャールズ・ヒックスが管理していたが、最終的にチャールズ・カレンダーに引き継いだ。ジョージア・ミンストレルズは全米および海外にツアー公演し、のちにハヴァリー・カラード・ミンストレルズとなった。 1870年代中期、白人のブラックフェイス・ミンストレルはより豪華になり、黒人によるミンストレルと逆に黒人文化から遠ざかっていった。フィスク・ジュビリー・シンガーズなどのジュビリー・シンガーズの流行により、霊歌などの黒人音楽を白人の宗教音楽とすることに北部の白人が興味を示した。複数のジュビリー・シンガーズは疑似ミンストレルとして売り込んでミンストレルの曲も演奏し、逆にブラックフェイスのミンストレルは聖歌を演奏し始め、その後南部の黒人宗教音楽に手を広げた。フィスク・ジュビリー・シンガーズによりブラックフェイスと一線を画すため、また宗教音楽であることを強調するために使用され始めた「ジュビリー」という単語は数年のうちに黒人文化において「ブランテーション」以上の意味を持つようになった。ジュビリー・シンガーズは白人市場に向け南部の黒人宗教音楽を洗練させ、一方ブラックフェイスはより異国風の見かけに誇張した。 アフリカ系アメリカ人のブラックフェイス・プロダクションも自己風刺による道化やコメディを含んでいた。アフリカ系アメリカ人が舞台に立ち始めた頃、黒人は肌の色の濃淡に関わらずブラックフェイスを施していた。1860年代、一時的に有色人種の劇団はこの慣習を破り、コメディ志向の「コルクで栓をするように」抑圧されていたが、他のパフォーマーたちはその色調の多様性でコメンテイターたちを驚かせた。この頃もまだブラックフェイスのステレオタイプで演じられていた。 黒人パフォーマーたちはアフリカ系アメリカ人コミュニティでスターとなっていたが、アフリカ系アメリカ人の上流階級からは無視あるいは非難されていた。1882年、中流階級のジェイムズ・モンロー・トロッターは「最低なカリカチュア」として軽蔑しつつ、黒人のミンストレルを非難する人も彼らのパフォーミングを見ればその「高い音楽文化」と感嘆し態度を軟化すると語った。白人の観客と違い、黒人の観客はカリカチュアとして捉えており、約50年後にマムズ・マブリーが登場するまで自分たちの文化を見るのを楽しんでいた。 差別的ステレオタイプが増強されてきたにも関わらず、ブラックフェイス・ミンストレルは実務的で、黒人の多くが就いていた単純労働に比べて生活に困らないほどの利益を得ることができた。人種差別の時代、アフリカ系アメリカ人ミュージシャン、俳優、ダンサーによって黒塗りでの舞台出演は自分の才能を披露するほぼ唯一の機会であった。ミンストレル・ショーは南部以外で上演され、人種差別を微妙にからかい、白人社会と奴隷制度廃止論推進のダブルスタンダードとなっている。白人、黒人に関わらずブラックフェイスのパフォーマンスにおいてブラックミュージック、ユーモア、ダンスの豊かさがアメリカや外国の白人の観客に最初に受けていった。ブラックフェイス・ミンストレルがアメリカのショー・ビジネスにおけるアフリカ系アメリカ人にとっての登竜門となった。黒人パフォーマーはブラックフェイスのパフォーマンスを白人に対する皮肉として利用していた。性的駄洒落が披露されることもあり、白人の道徳主義者から嫌悪された。ヴォードヴィルの侮辱的な演目には微妙なメッセージが込められていることもある。 ヴォードヴィルの人気上昇に伴い、バハマ生まれの俳優およびコメディアンのバート・ウィリアムズはフローレンツ・ジーグフェルド・ジュニアの唯一のアフリカ系アメリカ人スターとなり、ジーグフェルド最高額の給料を獲得した。 1909年、劇場所有者出演契約協会(TOBA)は、全員黒人によるヴォードヴィル巡業公演を組織し、ブラックフェイスは人気公演となった。パフォーマーらは給料が低く、「タフ・オン・ブラック・アクター」(TOBA、厳しい状況の黒人俳優)略して「トビー」と呼ばれていた。TOBAはティム・ムーアやジョニー・ハギンスなどを主役にし、パフォーマーは少なかったがとても良い生活を送れるようにし、TOBAは他所と比べてより魅力的な仕事を堅調に与えていた。白人、黒人に関わらず、ブラックフェイスは何百人ものアーティストやエンタテイナーの多くがのちに他の公演の仕事を見つけるための突破口となった。例えばヘイヴァリー・ヨーロピアン・ミンス トレルの最も有名なスターの1人はのちに「グランド・オールド・マン・オブ・ザ・ニグロ・ステージ」として知られるようになるサム・ルーカスであった。1914年、ルーカスはハリエット・ビーチャー・ストウ原作の映画『アンクル・トムの小屋』で主演した。1930年代初頭から1940年代終盤、ニューヨークのハーレムにある著名なアポロ・シアターは全米黒人地位向上協会(NAACP)からの抗議に関わらず、ほぼ全ての黒人パフォーマーがブラックフェイスを施し、唇を大きく白で塗りスケッチ・コメディを行なっていた。このコメディの中で、彼らはそのメイクがなければ裸のように感じると語った:4, 1983 ed.。 ミンストレル・ショーは当初の白人によるものから黒人パフォーマーによるものに移行していった。黒人たちはその様式を用いて自分のものにしていった。黒人劇場からプロのパフォーマンスができていった。黒人によるミンストレルには白人たちにはないバイタリティやユーモアを持ち合わせていたという意見もある。 黒人ミンストレルのパフォーマーは自身をからかうだけでなく、根底では白人をからかっていた。ケークウォークは白人パフォーマーの間では黒人のダンスを風刺したものであるが、黒人ミンストレルでは白人の生活習慣を風刺したものである。
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