パンチカード機械
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/01 10:11 UTC 版)
詳細は「解析機関」および「パンチカードシステム」を参照 1801年、ジョゼフ・マリー・ジャカールが開発したジャカード織機は織りのパターンをパンチカードで制御するようになっていた。パンチカードを差し替えるだけで織機自体は変更せずに様々なデザインの布を織ることができる。これはプログラミングの観点で画期的な業績である。 チャールズ・バベッジは機械式の自動計算機としては非常に大規模なものを作り、また設計している。1833年、バベッジは数表作成用の階差機関の開発からより汎用的な解析機関へと興味を移した。これは、ジャカールのパンチカードをプログラムの表現に使った(ジャカード織機では、カードの穴は経糸の上げ下げを直接示すだけだが、これはコード化である)。1835年にその解析機関について記述を残している。汎用のプログラム可能なコンピュータであり、入力にはパンチカード、動力源には蒸気機関を採用し、歯車や軸の位置で数値を表すものである。元々は、ないし、階差機関は、数表を高精度で作成することを目的としていたが、より発展した構想である解析機関は、より汎用でプログラム可能な、ある種のコンピュータと言えるかもしれないものであった。設計は正しく、計画も間違っていなかった(あるいは修正可能だった)が、機械製作を担当した職人との不和など様々な要因が重なって製作が頓挫した。バベッジは気難しい男で、誰とでも論争を起こした。部品は全て手作業で作る必要があり、個々の部品の小さな誤差が積み重なって全体としてはうまく動かない可能性もあった(そもそも「必要な精度」というものは当時わかりえなかった)。したがって、部品の精度に口うるさくても仕方のない面もあった。結果として中断したプロジェクトへのイギリス政府の出資中止が決まった。ジョージ・ゴードン・バイロンの娘エイダ・ラブレスは Federico Luigi, Conte Menabrea の著した "Sketch of the Analytical Engine" を英訳し、大量の注釈を付記している。これが世界初のプログラミングについての出版物とされている。 階差機関の初期の限定的設計のものを再現する計画が1991年、サイエンス・ミュージアムで実施された。いくつかの瑣末な修正を施し、バベッジの設計通りに動くことが確認され、時代を遥かに先行していたバベッジの設計が正しかったことが証明された。部品製作にはコンピュータ制御の工作機械を使ったが、当時の職人のレベルに合わせて誤差を生じるようにしている。 ダブリン出身の会計士 Percy Ludgate はバベッジの業績を知らなかったが、独自にプログラム可能なコンピュータを設計し、1909年に出版した著作にそれを記している。 以下は計算に使うこともできる(実際、おこなわれている)が、主としてデータ処理をおこなう機械、タビュレーティングマシンの話である。 1880年代末、アメリカのハーマン・ホレリスは機械で読み取り可能な形で媒体にデータを記録する方法を発明した。それまで、機械が読み取り可能な形で媒体に記録されるのは制御情報であって(ピアノロールやジャカード織機)、データではなかった。当初紙テープを試したが、最終的にパンチカードに到達した。鉄道の車掌が切符に鋏を入れる様を見て、パンチカードを思いついたという。パンチカードに穴を開けるキーパンチ機とそれを処理するタビュレーティングマシンを発明。それらの発明が現代の情報処理発展の基盤となった。機械式カウンタとして、リレー(とソレノイド)を使っている。ホレリスの発明はアメリカでの1890年の国勢調査に使われ、予定の数カ月前に集計を終え、予算も抑えることに貢献した。前回の国勢調査よりも数年短い期間で集計を終えている。ホレリスの創業した会社は後にIBMの中核となった。IBMはパンチカード技術を発展させて一連の商用データ処理機器(パンチカードシステム)を開発した。1950年ごろまでにIBMのシステムが産業界や政府で広く使われるようになっている。文書として一般人が手にするようになったカード(小切手や公共料金の明細など)には "Do not fold, spindle or mutilate"(折ったり穴を開けたり破いたりしないでください)という警告が印刷され、第二次世界大戦後の時代を表すキャッチフレーズとなった。 Leslie Comrieのパンチカード技術に関する記事やウォーレス・ジョン・エッカートの著書 Punched Card Methods in Scientific Computation (1940) によれば、パンチカードシステムとパンチカードを使って微分方程式を解いたり、浮動小数点数の乗除算を行うこともできた。このような機械は第二次世界大戦中には暗号の統計処理にも使われた。左上のタビュレーティングマシンの写真には、機械の右端にパッチパネルが写っている。パッチパネルの上端には一連のトグルスイッチがある。コロンビア大学の Thomas J. Watson Astronomical Computing Bureau(後のトーマス・J・ワトソン研究所)では、最先端のコンピューティングとしてパンチカードシステムを使った天文学の計算が行われていた。 パンチカードは、初期のコンピュータでも入力メディアとして鑽孔テープとともに使われた。 IBMなどパンチカードマシンのメーカーがコンピュータに乗り出してきて、コンピュータが設置された「計算センター」というものが設置されると、そこでは以下のような光景が見られた。ユーザーはプログラムをパンチカードの束の形で計算センターに提出する(プログラムの1行がパンチカード1枚に対応)。カードが読み取られて処理のキューに入れられ、順番がくるとコンパイルされて実行される。結果は提出者の何らかの識別と共にプリンターで印字され、計算センターのロビーなどに置かれる。多くの場合、その結果はコンパイルエラーや実行エラーの羅列であり、さらなるデバッグと再試行を必要とする。パンチカードは今でも使われており、その寸法(および80桁の容量)が様々な面で影響を及ぼしている。その寸法はホレリスのころのアメリカ合衆国の紙幣と同じで、紙幣を数える機械が流用できるためその寸法を採用した。
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