バルツァーによる駅の設計
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 21:03 UTC 版)
「東京駅の歴史」の記事における「バルツァーによる駅の設計」の解説
バルツァーは、中央停車場そのものの設計にも関与した。駅部分では線路は盛土の上にあり、駅舎はその西側に設けられる計画となっていた。日本建築に関心のあったバルツァーが提案した駅舎は、部分的に切石を用いた煉瓦造のもので、和風の入母屋破風や唐破風を取り入れた屋根を載せるという構造であった。日本の伝統的な城郭や寺社の建築様式を駅という新しい目的に利用することでバルツァーは、自国の文化を一顧だにせず洋風の建築様式の建物が無秩序に建てられていく東京の現状に一石を投じようとした。 バルツァー案の駅舎は5棟に分かれて建てられており、南側に乗車口、北側に降車口、中央に皇室用入口と近距離列車の降車口、この他に郵便局が置かれる構造となっていた。乗車口と降車口を別にするのは乗客動線の混乱を避ける目的で、ドイツなどではよく見られた方式であった。皇室専用口を中央に設けたのは、お召し列車の中央付近に連結される御料車へできるだけ近い位置に皇室専用通路を設けられるようにし、プラットホームに出てからの皇族の移動距離を短縮することで、一般旅客の立ち入り制限の範囲を狭める目的があった。しかし中央に皇室専用口を配置したことで乗車口と降車口が200 m余りも離れた位置に設けられることになり、使い勝手の悪いものとなってしまった。ヨーロッパの駅でも貴賓室が設けられる例は多くあったが、駅を広場の延長と考え一般大衆の利用するパブリックスペースとする思想が根強かったことから、貴賓室は駅の端部に設けて一般客との動線の交錯を避ける設計が一般的であった。乗車口の建物のみ2階建てで、1階に駅長室、出札口、待合室、手荷物扱い所、2階にレストランが設けられる設計であった。これに対して降車口は近距離用・長距離用ともに平屋で、施設も待合室、手荷物扱い所、鉄道公安室などが置かれる程度であった。 旅客用プラットホームは島式のものを3面用意し、駅舎に近い1面を近距離用(電車用)、遠い2面を長距離用(列車用)とする提案であった。ヨーロッパのターミナル駅ではプラットホーム全体を覆うドーム式大屋根を備えているところが多いが、中央停車場ではプラットホームごとに屋根を設ける方式が提案されていた。これは建設費を抑える目的の他に、日本では煤煙の多い石炭が使用されていたため屋根を設けると中が不快となることや、将来の拡張可能性などを考慮したものであった。これらのプラットホームへは乗車口・降車口・電車降車口から結ぶ3本の通路が設けられ、これとは別に皇室用通路や手荷物・郵便物の運搬用通路などが考慮されていた。電車用のプラットホームは列車用のものに比べて短いため、列車用プラットホームと降車口を結ぶ通路のところまで電車用プラットホームは届かない構造であった。このため、駅構内では南側の乗車口から入り乗車用通路からホームに上がり、到着時には北側の降車用通路に降り降車口に出る、南から北への一方通行が想定されていたが、電車と列車の間での乗換客だけは例外的に、南側の乗車用通路を利用する想定となっていた。 さらに当初は中央停車場に貨物施設を設置する計画となっており、バルツァーの設計でも八重洲側に貨物扱いの設備が考慮されていた。貨物扱い施設は、盛土工事の手間を節減し河川水運との連絡を改善する目的で、高架上の本線から下って旅客プラットホームよりは3 mほど低い位置にある盛土上に建設される計画となっていた。船溜を設けて水運との連絡を図る設備を備えることになっていた。 このようにバルツァーは中央停車場の具体的な設計を行ったが、しかしバルツァー案に含まれていた和風の駅舎案は、後に実際に東京駅舎の設計を担当することになる辰野金吾からは「赤毛の島田髷」と酷評された。日本建築に石や煉瓦を用いること自体が容易ではなく、日本を訪れた西洋婦人が物珍しさから、洋服を着ながら日本風に髪を結って日本の履物を履くようなものだとし、日本文化の消化が不十分であるとされた。一方皇室用入口を駅の中央に配置することは当時としても利用者に不便を強いるとして疑問視する声が上がっていたが、バルツァーの提案に対して鉄道作業局の上層部から特に反論はなく、また辰野金吾がこれを名案として自分の設計に取り入れたことから最終的に採用されたものと推測されている。これに加えてプラットホームと通路の配置や駅構内の配線計画など、平面計画はアレンジを加えつつも基本的にバルツァー提案のものが受け継がれて実際に用いられることになった。ただし電車用のプラットホームが1面増えて2面となり、合計4面のプラットホームを備えた形で完成している。また貨物扱い設備については、その後の鉄道国有化により秋葉原駅、飯田町駅、隅田川駅などの私鉄が保有していた貨物駅を国鉄が利用できるようになったこともあり東京駅での設置は見送られ、東京駅は純旅客駅として開業することになった。バルツァーは、将来的に貨物扱い設備を郊外に移転させればそのスペースを別の用途に転用できると示唆していたが、実際にはそこに車両基地を増設して開業することになり、後に東海道新幹線を実現するために重要な役割を果たすことになった。
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