ジュビロ磐田時代とは? わかりやすく解説

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ジュビロ磐田時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 13:51 UTC 版)

川口能活」の記事における「ジュビロ磐田時代」の解説

2005年ノアシェランから地元静岡県チームであるジュビロ磐田移籍同年4月10日のJ1第4節FC東京戦で、約4年ぶりにJリーグ公式戦出場した2006年は全34試合出場しJリーグベストイレブン選ばれた。 2008年5月10日の第12アルビレックス新潟戦(東北電力スタジアム)で史上32人目GKとしては史上3人目のJ1通算300試合出場達成。しかしこの年チーム終始低迷し残留かかった最終節大宮アルディージャ戦も敗れて16位でシーズン終えた12月13日J23位ベガルタ仙台とのJ1・J2入れ替え戦第2戦では、後半24分の平瀬智行ループ気味のヘディングセーブ後半ロスタイムでの顔面でのセーブ などの働き見せ磐田のJ1残留貢献した2009年バーレーン遠征中の1月24日に右脹脛を負傷肉離れ診断されJリーグ開幕戦の出場は微妙と報道されていたが、開幕戦間に合わせた。しかし守備乱れなどもあり、モンテディオ山形戦(2-6@ヤマハ)、第2節ガンバ大阪戦(1-4@万博)の2試合で計10失点喫し、更に第6節清水エスパルス戦まで5試合勝利がなく、その後失点減ったものの波に乗り切れず低空飛行続いた9月19日、第26京都サンガF.C.戦でFW金成勇接触した際に右脛骨骨幹部骨折負傷、右脛骨骨幹部骨折により全治6ヶ月診断され 離脱残りシーズンを棒に振ることとなった2010年序盤リハビリのためベンチ入りすらなかったが、自身も代表に選出され南アフリカW杯後の8月7日、第17山形戦(0-1)で約1年ぶりに公式戦復帰したこの年リーグ戦17試合出場リーグ戦こそ前年同様序盤出遅れもあって2年連続11位に留まったものの、第32節では敵地鹿島アントラーズ相手に好セーブ連発して8年ぶりの勝利を挙げたナビスコカップでは決勝トーナメント4試合出場し9年ぶりの決勝進出決勝サンフレッチェ広島戦では槙野智章PK止めるなど好プレー披露し12年ぶりの優勝達成した(なお、この優勝磐田にとっては7年ぶりのタイトルだった)。 2011年8月3日行われたスルガ銀行チャンピオンシップでは、2-2迎えたPK戦2人目と3人目止めて優勝導いた。また5年ぶりに全34試合フル出場し、順位4年ぶりに1(8位)を記録した2012年3月10日コンサドーレ札幌との開幕戦史上3人目のJ1通算100完封達成した。続く3月17日サガン鳥栖戦では史上8人目のJ1通算400試合出場達成した。しかし、3月22日練習中にアキレス腱断裂全治6ヶ月診断され長期離脱となってしまった。その後12月15日天皇杯4回戦鹿島戦にて約9カ月ぶりに公式戦復帰するも、チーム逆転負け喫した2013年シーズンチーム成績低迷影響もあり徐々に出場機会失い8月10日20サンフレッチェ広島戦(1-2@Eスタ以降スターティングメンバーから外れるようになる8月31日24ヴァンフォーレ甲府戦(1-1@ヤマハ)では5試合ぶりに復帰するが、その後リーグ戦での出場はなく、以降腰痛影響もあり登録メンバーから外れることもあった。最終節となる12月7日大分トリニータ戦(3-1@ヤマハ)で久々出場果たし、9試合ぶりの勝利貢献するが、翌年J2降格決定しているチームからの契約期間満了通達により、この試合をもってジュビロ磐田での最終ゲームとなり、9年在籍したチームを去ることになった

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ジュビロ磐田時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 06:42 UTC 版)

中村俊輔」の記事における「ジュビロ磐田時代」の解説

2017年1月7日夜、共同通信社速報磐田との大筋契約合意伝え1月8日に両クラブから正式に発表された。横浜FMからは年俸1億2000万円提示受けていたが「サッカーだけに向き合い燃え尽きたい」と8000万円提示した磐田への移籍決めた横浜FM側から見ればこの移籍による損失大きく公式サイト声明を出すまでに至っている。開幕戦C大阪戦からスタメンフル出場し、その試合走行距離両チーム合わせて一番だった。3月11日行われた第3節大宮アルディージャ戦で移籍後初の得点を得意のフリーキック決めた4月1日第5節清水エスパルス戦では初の静岡ダービー挑み、3得点に絡む活躍勝利貢献した最終的には、シーズン30試合5得点挙げ昨季13位で残留争いをしていたチームを6位でシーズン終えるなど加入一年目からチーム中心選手として活躍した。 2018年シーズン序盤は、レギュラーとして出場する右足怪我影響6月手術行った9月頃から復帰を果たすもリーグ戦16試合出場となり、Jリーグ自身初めてとなる無得点シーズン終えたJ1参入プレーオフ終了後、同シーズン限り磐田との契約が切れることを明かし来季動向について明言しなかった。12月14日、『スポーツパラダイス』に磐田の名波監督出演しクラブとしてオファー提示していることを明かした2019年1月9日磐田残留報じられ1月12日加入3年目となる2019年シーズン背番号10背負い磐田プレーすることが明らかになった。また、40歳2019年シーズンJ1最年長となる。開幕戦松本山雅FCとの試合スタメン出場するも、その後怪我影響もあり、移籍決定した7月まででリーグ戦2試合のみの出場となった

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ジュビロ磐田時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/09 01:37 UTC 版)

奥大介」の記事における「ジュビロ磐田時代」の解説

1994年Jリーグ参入間もないジュビロ磐田加入U-19およびU-20日本代表選出されアジアユースおよびワールドユース出場したワールドユースでは準々決勝ブラジル戦にて1得点挙げた1996年5月4日、第12節・サンフレッチェ広島戦でリーグ戦初出場1997年度からレギュラー定着し7月5日ファーストステージ13節・京都パープルサンガ戦にて前半42分にリーグ戦得点挙げた1998年度にはJリーグベストイレブン初め選出された。1998年10月28日キリンチャレンジカップ対エジプト戦でフル代表デビュー。翌1999年9月8日にはイラン代表との試合で初得点挙げた2001年シーズン終了後横浜F・マリノスレンタル移籍した。

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