ジュビロ磐田時代
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2005年にノアシェランから地元・静岡県のチームであるジュビロ磐田へ移籍。同年4月10日のJ1第4節FC東京戦で、約4年ぶりにJリーグ公式戦に出場した。 2006年は全34試合に出場し、Jリーグベストイレブンに選ばれた。 2008年5月10日の第12節アルビレックス新潟戦(東北電力スタジアム)で史上32人目、GKとしては史上3人目のJ1通算300試合出場を達成。しかしこの年チームは終始低迷し、残留のかかった最終節の大宮アルディージャ戦も敗れて16位でシーズンを終えた。12月13日、J2・3位のベガルタ仙台とのJ1・J2入れ替え戦第2戦では、後半24分の平瀬智行のループ気味のヘディングをセーブ、後半ロスタイムでの顔面でのセーブ などの働きを見せ、磐田のJ1残留に貢献した。 2009年はバーレーン遠征中の1月24日に右脹脛を負傷。肉離れと診断され、Jリーグ開幕戦の出場は微妙と報道されていたが、開幕戦に間に合わせた。しかし守備の乱れなどもあり、モンテディオ山形戦(2-6@ヤマハ)、第2節ガンバ大阪戦(1-4@万博)の2試合で計10失点を喫し、更に第6節清水エスパルス戦まで5試合勝利がなく、その後失点は減ったものの波に乗り切れず低空飛行が続いた。9月19日、第26節京都サンガF.C.戦でFW金成勇と接触した際に右脛骨骨幹部骨折で負傷、右脛骨骨幹部骨折により全治6ヶ月と診断され 離脱。残りのシーズンを棒に振ることとなった。 2010年序盤はリハビリのためベンチ入りすらなかったが、自身も代表に選出された南アフリカW杯後の8月7日、第17節山形戦(0-1)で約1年ぶりに公式戦に復帰した。この年はリーグ戦17試合に出場。リーグ戦こそ前年同様序盤の出遅れもあって2年連続で11位に留まったものの、第32節では敵地で鹿島アントラーズ相手に好セーブを連発して8年ぶりの勝利を挙げた。ナビスコカップでは決勝トーナメント4試合に出場し、9年ぶりの決勝進出。決勝のサンフレッチェ広島戦では槙野智章のPKを止めるなど好プレーを披露し、12年ぶりの優勝を達成した(なお、この優勝が磐田にとっては7年ぶりのタイトルだった)。 2011年8月3日に行われたスルガ銀行チャンピオンシップでは、2-2で迎えたPK戦で2人目と3人目を止めて優勝に導いた。また5年ぶりに全34試合にフル出場し、順位も4年ぶりに1桁(8位)を記録した。 2012年3月10日のコンサドーレ札幌との開幕戦で史上3人目のJ1通算100完封を達成した。続く3月17日のサガン鳥栖戦では史上8人目のJ1通算400試合出場を達成した。しかし、3月22日の練習中に右アキレス腱を断裂。全治6ヶ月と診断され、長期離脱となってしまった。その後、12月15日の天皇杯4回戦・鹿島戦にて約9カ月ぶりに公式戦に復帰するも、チームは逆転負けを喫した。 2013年シーズンはチームの成績低迷の影響もあり徐々に出場機会を失い、8月10日第20節サンフレッチェ広島戦(1-2@Eスタ)以降はスターティングメンバーから外れるようになる。8月31日第24節ヴァンフォーレ甲府戦(1-1@ヤマハ)では5試合ぶりに復帰するが、その後のリーグ戦での出場はなく、以降は腰痛の影響もあり登録メンバーから外れることもあった。最終節となる12月7日の大分トリニータ戦(3-1@ヤマハ)で久々の出場を果たし、9試合ぶりの勝利に貢献するが、翌年のJ2降格が決定しているチームからの契約期間満了の通達により、この試合をもってジュビロ磐田での最終ゲームとなり、9年間在籍したチームを去ることになった。
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ジュビロ磐田時代
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2017年1月7日夜、共同通信社が速報で磐田との大筋契約合意を伝え、1月8日に両クラブから正式に発表された。横浜FMからは年俸1億2000万円の提示を受けていたが「サッカーだけに向き合い、燃え尽きたい」と8000万円を提示した磐田への移籍を決めた。横浜FM側から見ればこの移籍による損失は大きく、公式サイトで声明を出すまでに至っている。開幕戦のC大阪戦からスタメンでフル出場し、その試合の走行距離は両チーム合わせて一番だった。3月11日に行われた第3節の大宮アルディージャ戦で移籍後初の得点を得意のフリーキックで決めた。4月1日、第5節の清水エスパルス戦では初の静岡ダービーに挑み、3得点に絡む活躍で勝利に貢献した。最終的には、シーズン30試合5得点を挙げ、昨季13位で残留争いをしていたチームを6位でシーズンを終えるなど加入一年目からチームの中心選手として活躍した。 2018年シーズン序盤は、レギュラーとして出場するも右足の怪我の影響で6月に手術を行った。9月頃から復帰を果たすもリーグ戦16試合の出場となり、Jリーグで自身初めてとなる無得点でシーズンを終えた。J1参入プレーオフ終了後、同シーズン限りで磐田との契約が切れることを明かし、来季の動向について明言しなかった。12月14日、『スポーツパラダイス』に磐田の名波監督が出演し、クラブとしてオファーを提示していることを明かした。 2019年1月9日、磐田残留が報じられ、1月12日、加入後3年目となる2019年シーズンも背番号10を背負い、磐田でプレーすることが明らかになった。また、40歳は2019年シーズンJ1最年長となる。開幕戦の松本山雅FCとの試合にスタメン出場するも、その後は怪我の影響もあり、移籍が決定した7月まででリーグ戦2試合のみの出場となった。
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ジュビロ磐田時代
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1994年、Jリーグ参入間もないジュビロ磐田に加入。U-19およびU-20日本代表に選出され、アジアユースおよびワールドユースに出場した。ワールドユースでは準々決勝のブラジル戦にて1得点を挙げた。 1996年5月4日、第12節・サンフレッチェ広島戦でリーグ戦初出場。1997年度からレギュラーに定着し、7月5日のファーストステージ第13節・京都パープルサンガ戦にて前半42分にリーグ戦初得点を挙げた。1998年度にはJリーグベストイレブンに初めて選出された。1998年10月28日にキリンチャレンジカップ対エジプト戦でフル代表デビュー。翌1999年9月8日にはイラン代表との試合で初得点を挙げた。 2001年シーズン終了後、横浜F・マリノスにレンタル移籍した。
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